よむためにうまれて

上昇気流にのって旋回する沖合いのカモメのように、子どもの本のまわりをぐるぐるしながら、ぷかぷかと日々に浮かぶマナティのような個人的記録も編んでいます。

よむためにうまれてーnati per leggere②

(※前回の、『ボローニャ・ブックフェア物語』(市口桂子著)の中からブログタイトルの言葉を拝借した話「よむためにうまれてーnati per leggere①」の続きです。)

 

 

ブックフェアの成り立ちもさることながら、この第四章も非常に面白いです。

 読書に関する取り組みが紹介されていて、中でもグラフィック・デザイナーの駒形克己氏の発案による紙と鋏を使った少年院内でのワークショップの話が興味深かったです。

イタリアというと須賀敦子さんくらいしか私は真っ先に思い浮かぶものがないですが、

少年による犯罪や不法入国移民の少年たちなど、美しいイメージ以外のイタリアの姿を垣間見させてもらえます。

少年院内に、鋏やカッターといった刃物を持ち込まなければできないワークショップに、goサインを出した理由について、少年院の院長さんが、さすが芸術の国のイタリア人、と思わせられる言葉で語っています。

 

“「私の個人的意見ですが、「美」は教育そのものなんです。

 「美」にふれることは、私たちみんなにとって教育的な意味をもっています。」”

 

この院長のジッコーネさん、他にも、少年院内に劇団をつくったり、オーケストラを呼んだりしたのだそうです。

さらに、駒形氏のアイデアと、ボローニャの少年院を結び、このワークショップを企画したパゾーリさんという方の言葉も紹介しておきます。

 

“「児童書のブックフェアをやるということは、教育や人材育成や文化的発展や社会問題といったジャンルにまでその職種を伸ばしていくということなの。そして実際、児童書のまわりには、そういうことに強い関心を持っている人がたくさんいるのよ。」”

 

人の孤独には、たぶん、不健全な孤独と健全な孤独と2種類あるように思います。

「他の誰か分の自分」における孤独と、

「自己分の自分」の孤独、と言い換えることもできます。

読むことや、何かをつくり出すこと、美しいものと向き合うことは、

恐らくこの、自己分の自分、己だけで充足した健全な孤独を、

自分の体内に安定的につくれる助けになるのだろう、と思います。

不特定多数の誰かの上に立脚した自分が抱え込んだ孤独は、知らない間に憎しみや、卑屈さで自分を蝕んでしまう。

いろんな事件があって、世界のどこの事件も、毎朝センセーショナルに届けられるけれど、そういったものを知るにつけ、いつもこの、「孤独」の問題を考えてしまいます。

 

ちなみにこの本は銀座:教文館さんで買いました~。

教文館は、知り合いや親戚の子どもに絵本のプレゼントを買いに行くときに、

定番の作品や、子どもの本関連全般、あらゆる年齢層向けの本が手に入りやすいので、

とても便利で助かっています。

 

#ボローニャ・ブックフェア