よむためにうまれて

これは、子どもの本の専門店や、気に入った本屋さんのはなし、などなど、上昇気流にのって旋回する沖合いのカモメのように、子どもの本のまわりをぐるぐるする記録です。

街のなかに、本屋さんがあるということ①

京都の3軒(きんだあらんど/メリーゴーランド/絵本館)を回ってみて、

あらためて街の本屋さんの存在に感心しました。

 

実は今、日本を離れて別の国にいます。

途上国・先進国、というくくり方が嫌いですが、それでいうなら、途上国に来ています。

ここでは、本は高い買い物です。

 

今日、大事な妹分と久しぶりに食事をしていて、

「子どもの本の研究をしている、というと、この国の人は不思議な顔をするよ ̄ー ̄;

子どもの本の何がそんなに重大なことか、て顔をされるよ」というと、

それはそうだろう、と言っていました。

小さい頃から子どもの文学という概念にあまり親しくしていないから、と。

ましてや、今は社会の大きな変化の波を受けて、経済は上向きつつも、

ゲームばかりが子どもの間に流行っていて、

本を読む習慣のある子どもはいなくなった、と言っていました。

 

そんな妹分は、今、お腹に最初の赤ちゃんがいます。

その子はどんな本を読むんだろう、あるいは、本を読む、ということの感動、経験を、

どれほど味わうのだろう、と考えてしまいました。

 

『児童文学の教科書』という本の中で、川端有子さんが、

児童文学は、豊かな経済状況の中で生まれてくるものだと書かれています。

まさにその通りです。

子どもの本の市場が、国内に成立するのは、

ひとつの国の発展のほぼ最終段階においてしかないでしょう。

識字率、中級クラス以上の購買能力、教育・教養の熟成からくる本への興味、

子どもだけでなく、子どもの本を楽しめる大人の存在、政府の支援、

義務教育と図書館の普及、書物の販売ルートの確立、大手出版社の出現、

そして最後に、町の本屋さんの存在などなど、

子どもの本の状況を見ていると、教育、経済力、社会状況、政治の安定性などの上に、

ようやく乗っかって出現する「文化」なのだと分かります。

当たり前に本のある状況では当然のようにこれを享受していますが、

その成立過程には、複雑な社会の変容と成長が絡まって存在します。

だからこそ、児童文学の研究は、多くの他の分野に足をまたいで研究されています。

そこが、非常に面白い、と私は心から思っています。

 

そうした本の流通は、

まるで血脈のようにその国の隅々に栄養を巡らせ、

体温を温める役割を担っているんじゃないか、と。

今日、この国にいて、あらためてそう思いました。

(つづく)