よむためにうまれて

上昇気流にのって旋回する沖合いのカモメのように、子どもの本のまわりをぐるぐるしながら、ぷかぷかと日々に浮かぶマナティのような個人的記録も編んでいます。

デジタル化と時代を思う

ブログの更新が止まると、

あっっ・・・・という間にそれが

1週間2週間となり、1ヶ月以上経ってしまった。。。

 

日本に帰国して早々、消費税が10%になり、

キャッシュレス化への移行もついでに促進されると聞いていたけれど、なんだかんだで、「現金不便だ」と思っていた私が、キャッシュレス化に逆行するように、現金で支払う方が楽だ、と思ってしまっている日々。

 

なんでだろう、と思うんだけれど、

 

イギリスの場合、ほとんどの人が現金で払っていなくて、レジがどんなカードも一律に対応できるシステムになっていたのがミソだったように思う。

そのために現金を出すと、精算の早さがその人だけ淀む、、、ということもあった気がする。

通貨は社会にくまなく浸透したシステムだからこそ、「全員」「一律」「均質」というキーワードが要になってくるのだろう。

 

その点、日本はどれとどれが支払い対応可能だとか、レジやお店のガラスにものすごく長い対応可能カードのリストがはられていたりして、それ自体がめんどうくさいし、キャッシュレスのポイントがどうのこうの、と考えるのもめんどうくさい。

 

SuicaPasmo最強説は、その点とても納得する。

 

今日ブログを更新しようと思ったのは、お金のことではなく、、、

 

金の星社が創立100周年を記念して、デジタルライブラリーを開設した、というニュースを読んだから。

 

創業者の斎藤佐次郎が手がけた大正8年から昭和3年までの「金の船」「金の星」を、デジタル版として公開するらしい。

 

さっそく2つpdf版がアップされていたけれど、当該時期・雑誌を研究領域にしていない人でも、野口雨情の童謡やその挿絵や表紙を手元のパソコンで開けてみられるのは、ありがたいことだと思う。

 

とてもかわいらしいということに加えて、

 

大正や昭和初期の、日本人の生活の根底にまだあった「きちんと」という感覚が、雑誌から伝わってくるような気がする。

 

帰国後しばらく実家にいて、諸事情あって、むかし祖母が着ていた洋服を引っ張り出す機会があったのだが、その服の生地やつくりがしっかりしていて、今着てみても遜色が全くないことを知った。

 

というか、今の服よりも、「きちんと」着られる。

 

よく考えると大正・昭和の時代は、海外で安価な素材と安価な人件費で安価な商品をつくって大量に売る、という生産形態が出来上がるずっと前で、おばあちゃんの持っていた服は当然ながらすべて「日本製」だった。

 

帰国してから、しまってあった本棚の大量の本や、大量の紙の資料を見て、「こんなに紙で保存しておく必要ってもはや無いな・・・」と瞬間的に思っている自分に気がつき、それがいかに「デジタル資料」の便利さに慣れた証拠かと思い知った。

 

一方で、留学を終えるときに、留学生が大量に捨てていく物、物、物で溢れかえったゴミ捨て場と、リサイクルポストからあふれ出た段ボールやビニール袋の山を今でも覚えているし、自分自身も身の回りの物の整理をここ2ヶ月ほどでしていたこともあり、生活の中にある、物への無頓着さを考える機会が多かった。

 

物体としてそこにある、ということの存在感は、今世紀の間にどこまで薄まってしまうのかな、とちょっと行く末を考えた。

 

「金の船」「金の星」のデジタル版が、デジタル版になっても尚、眺めて読んで楽しめるのは、紙の印刷物がデジタル化されているからだ。

 

もしもこれが、最初からデジタルだったら、紙の黄ばんだ質感や、印刷のかすれ具合、文字やルビから受ける印象はなくて、全く無機質なものだったと思う。

あの頃の「きちんと」を伝えられるのは、人間が手がけた厚みがそこに感じられるからだろう。

つまり人は、誰かが手を使ってつくったものにだけ混入される人間臭さを受け取れる回路を、どこかに持ち合わせていたのだろう。

 

米原万里さんがエッセイで、海外に出ていた年月は、実年齢から差し引いて考えていい、と書いていたけれど、

 

なんだか、たった1年だけ日本を出て帰ってきて、むしろ歳を取って帰ってきたような、浦島太郎的な気持ちのする今日この頃。

 

またぼちぼちとブログを更新しま~す。