よむためにうまれて

上昇気流にのって旋回する沖合いのカモメのように、子どもの本のまわりをぐるぐるしながら、ぷかぷかと日々に浮かぶマナティのような個人的記録も編んでいます。

少しこのブログに関係のあるおはなし⑥:マルチリテラシーの世紀

人の生命を守ることが一番大事なことで、
そのことに従来の仕組みやルールがそぐわないのなら

ルールや仕組みを変えればよい。
それが私の発想でした。
変わってゆくのは不可避なのです。
また、どんなに妥協的であっても、救える命があるなら
そこで救うしかありません。


 ー 緒方貞子『聞き書 緒方貞子回顧録』(野林健・納家政嗣編)

 

昨年亡くなられた緒方貞子さん。生前、実は外務大臣のポストのオファーもあったのに、断っていたんですよね。

 

 

イギリスで、妊娠していた看護師さんが、無事に赤ちゃんは生まれたものの、この世を去ったというニュースが、本当にせつない。

命を助ける仕事をしていて、そして新しい命をこの世に産んで、でも、その命が育っていくのを見ることなく、赤ちゃんがいっぱい泣いたり笑ったりするのを見ることなく去っていったお母さんは、たくさんの命を助けて逝ったんだな、と思う。赤ちゃんはきっと、大きくなったら、お母さんのことを誇りに思うだろうし、そんなすてきなお母さんに産んでもらったことそれだけで、人生がたっぷりとした愛に支えられている自信になるんだろうな。

 

 

もしも緒方さんが外務大臣になっていたら、日本という国が、今どんなふうに変わっていただろうか、とちょっと考える。

「現場こそ大事」というポリシーで、難民であふれてしまった場を訪れて、どうすれば命を救えて、そしてどうすれば、その先の人生を築いていけるかを考えながら、日々動き続けた人だったんだなぁ、と思った。

現場と向き合って、そして現場の問題を突破するために、各国の関係者や責任者と向き合い、国際協力へとつなげていった手腕が、今、たくさんのすてきな言葉を集めてきたノートを開いていて、懐かしくなった。

世代を経るごとに、「国際人」と呼ばれるようなすてきな日本人が少なくなっていくのも、またひとつの不思議な現象だ。

 

 

前のブログに、もう、世の中はマルチリテラシー、トランスリテラシーの時代ね、とちょっとだけ書いた。

私は最初、児童文学のためだけに留学を、という思いがあったものの、結局、入ったコースは、児童文学+リテラシーとは何ぞや?という授業がくっついてくるコースだった。最初は、まっったく興味がわかなかったし、ちんぷんかんぷんだったけれど、学んでいくうちに、世界がまるで違って見えるようになった。

トランスリテラシーは、マルチリテラシーの延長線上に出現してきた概念で、さまざまなメディアの別々のリテラシーではなく、人間はすべてをまるっと、ひとつのリテラシー、つまり「読む」という同じ能力のもとに受け取っているのではないか、というもの(らしい)。誰かの言葉が、道端で発せられようとツイッター上で発せられようと、ブログになろうと、映像の中だろうと、それらはみな、等しく誰かの物語であって、あらゆるメディアをひとつのリテラシーとして有機的に使いましょう、というもの。らしい。

これを知って以来、すっかりこの概念が気に入った。

 

そして、最大の重要なポイントは、マルチリテラシー時代のメディアは、それ自体が「民主的」性質をもっていることだ。

そうしたリテラシーを学ぶことが、民主的で多言語的な側面を教育にもたらす、と言われている。

無名の誰かの言葉が、あっという間に世界中の人たちへと拡散されていく可能性をもっている。それぞれの言葉や情報は、ネット空間という土俵において、等しく扱われ、そして情報の価値は民衆によって測られていくことになる。いいね!の数や何やらで。

3.11直後のツイートは、著名人よりも、名もないユーザーのツイートが急増したというデータがあって、こうした多数の人口が同時に同じひとつの非常事を経験している時期には、たくさん言葉が交わされる、発出される、ということなのだと思う(まさにしょっちゅう更新が止まる私が、いつも以上にブログを更新しているように)。あるいは、発出せずにはいられないことを、同時に多くの人が経験している、ということだ。

そういう状況下で、‘エライ人’ が同じメディアを使って何かを発出することは、群衆の中に入っていって何かをしゃべるのと同じことだと考えればいい。ましてや、「リモコン」とはつまりリモートコントローラーであって、「遠くの安全な場所から立ち上がらずに指図をする」ことができる道具を意味する。それを意図しようとしまいと、あらゆる意味が生じる、という事実がそこにあるだけだ。

 

映像、写真、言葉、音楽、絵、デザイン、声、音、色、形、動きなどのすべてが、総合的に、人々に意味をもって伝わり、そのすべての細かな意味を解そうが解すまいが、私たちはちゃんとそれらを意識下で受け取っている。

確かなリテラシーがそこにある、という証拠だ。

 

 

もしも、そんな21世紀のマルチなリテラシーにはついていけない、そんなトランスリテラシーの読解力はもたずに育ったんだよ、という方々であれば、ぜひ、絵本から始めるのがよいでしょう。

絵本は、子どものマルチリテラシーを育ててくれる、すばらしい芸術です。