時には、言葉は思い出にすぎない。
だが、ときには言葉は世界全部の重さと釣合うこともあるだろう。
― 寺山修司
前回の記事で、寺山修司の言葉と本を引きましたが、
高校生のときからずっと、寺山修司大好き人間です。
高校のとき、大学入試の小論文のために、今まで読んでいなかったような本にも手を伸ばして見たり、新聞のコラムなどをよく読むようになりました。
そしてもう一つ始めたものが、気に入った言葉をノートにつけておく、というものです。
このブログの第1回目の記事でも書きましたが、とにかく私は「三日坊主の天才」です。
何を始めても必ず飽きる。笑
退職後に始めたモーニングページも、すでにやめてしまいました(^^;
それでも、この、言葉を収集する習慣は、高校以来ずっと続けていて、今では、自分にとっての一番の財産になっています。
確か、浅田次郎が、地震が起きたら何よりも辞書を抱えて逃げる、とどこかで書いていたように(うろ)覚えていますが、私はたぶん、言葉をつけてきたノートたちと祖母からもらったつげの櫛かなぁ、と思います。
そして、その記念すべき最初のノートの表紙裏に、高校生だった私は、寺山修司の言葉を冒頭のものを含めて、3つ書き留めています。
言葉を友人に持ちたいと思うことがある。
それは、旅路の途中でじぶんがたった一人だと言うことに気がついたときである。
大学は地方の大学へ行って、実家を出てみようと内緒で計画していた自分は、こんな心境だったのかもしれません(笑)。
そして、もう一つ。
これはもう、いつも折にふれて思い出す名言です。
言葉はいつまでも、一つの母国である。
自分がこうしてたくさんの言葉を収集してきたことの、源流のような言葉です。
集めてきた言葉の、一体どれくらいが、自分の血となり身となり自分の中を流れているのかわかりませんが、おそらく、唯一死ぬまで続けるだろう私の習慣です。
ノートにおさめられた言葉の数々は、自分の本棚と同じか、あるいはそれ以上に、自分がどんな人間かをよく物語っているように思います。
さて、この言葉収集には、手のひらサイズくらいのノートが一番使いやすく、今までそれくらいの大きさで、デザインも素敵なちょうどいいノートを探すのに苦労してきました。
ですが、数年前に、とうとうこちらの☟ムーミンシリーズのノートとめぐり逢い、以来、これをネットでせっせと買いためてきました(サイズは文庫と同じ)。
特に、白の装丁のニョロニョロがお気に入りでした。
なぜかというと、他のキャラクターのイラストよりも、ちょっとだけ壮大だったり哀愁が漂っていたりするイラストがほどこされているのですが☟、それが、メモった言葉にぴったり合う、という奇跡が頻繁に起こるからです(笑)
そして、今使っている赤いミーのノートが終了したら、次に控えているのがこちら!
ヨシタケシンスケさんの『あるかしら書店』の手帳版です。
表紙には、何の記録の何巻目なのかが書けるようになっています。これは便利!
ヨシタケさんのほのぼのしたイラストに、収集した言葉たちがどんなふうにマッチするのか、使うのが今から楽しみです★