よむためにうまれて

上昇気流にのって旋回する沖合いのカモメのように、子どもの本のまわりをぐるぐるしながら、ぷかぷかと日々に浮かぶマナティのような個人的記録も編んでいます。

あなたの手のぬくみ

昨日の満月は煌々としていて見事でした。

でもなんとなく、東京で見る満月は、大きいのか小さいのか近いのか遠いのかわからない・・・。

ビルの上にあがる満月が、ほかの光よりもきれいで明るいのですが、本領発揮、という風景ではないなぁ、残念だなぁ、と思って眺めていました。

 

そこで思い出して開いてみたのがこの☟絵本。

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谷川俊太郎さんの「生きる」の詩に、岡本よしろうさんの絵をつけたものです(福音館書店,2013)。

谷川さんの言葉が、日常の風景の中に寄りそうようにはさまれていることによって、より一層、いきている実感と、その愛おしさ、そのかけがえのなさが迫ってくる一冊です。

この本の最後の方に、

(というか、これはブログを始めたときに最初に記事にした大好きな子どもの本屋さんで衝動買いをしてしまった~、と以前の記事にも書きました)

海の上に浮かぶ満月が、見開き2ページにどどんっと出てきます。

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この景色が大好きで、恋しくなったときは、いつもこの絵本を開きます。

 

今、この状況で開いてみると、いかに、この詩の中の言葉が尊いかが、痛いほど胸にしみます。

公園で元気に子どもたちが遊びまわる様子、

人が行きかう通り、

信号機のボタンを押す少年、

おじいちゃんとすごす夏、

そしてにぎわう商店街。


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今、見られなくなってしまった風景ばかりがあふれています。

今までの日常に、どれほどの「生きているということ」が横溢していたか、今、あらためて絵本を読みかえしてみて、そのせつなさに、ちょっと衝撃を受けるほどです。

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生きているということ いま生きているということ

のリズムで始まる全39行の詩。

きっとほとんどの日本人が小学校の教科書で読んだと思います。

 

生きているということ

いま生きているということ

.

あなたと手をつなぐこと

 

生きているということ

いま生きているということ

.

すべての美しいものに出会うということ

そして

かくされた悪を注意深くこばむこと

 

生きているということ

いま生きているということ

.

自由ということ

 

生きているということ

いま生きているということ

.

いまいまがすぎてゆくこと

 

生きているということ

いま生きているということ

.

人は愛するということ

あなたの手のぬくみ

いのちということ

 

ひとつひとつの「生きているということ」―くしゃみをしたり、ミニスカートはいたり、泣いたり笑ったり、遠くで犬が吠えるのを聞いたり、かたつむりがはって行ったり―を、丁寧にその連の最後の行がひきうけ、うけとめています。

それが、いわば、この詩の「やさしさ」になっているのかもしれません。

この「やさしさ」によって、それぞれのいのちを、ちゃんと観ています、というまなざしの温かさが、それぞれの連の終わりにひとつひとつ、大切に置かれているのを、読み手は感じられるようにできているのではないか、と思います。

 

今は、誰かの手のぬくみを感じないよう、

距離をとらなければならない時期だけれど、

それでも、

「生きているということ」はまだまだたくさん、

日常にあふれている。

 

 

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ただ、ちょっとだけ、う~~~んんん、と思う部分があるとすれば、最後の「いのちということ」が、この海を照らす月の見開きページであったらよかったかなぁ、と。

これはあくまで私の率直な感想です。この「いのちということ」の一行が、それまでのこの詩の38行すべての言葉を引きとり、そして背負っているわけであって、その静けさ、その重さが、地球ひとつにも相当するのだ、というのは、よくわかるのです。そのとおりです。前回の寺山修司の言葉でいうなら、「世界全部の重みと釣合う」ような締めの一行と言えます。がしかし、それが1ページの余白の中に浮かぶ地球、というのがどうしても私には、最後に、(う~~んん)な思いを感じさせないではいられないです。それはたぶん、海に浮かぶ満月の方が、よほど強いいのちを示す絵になってしまっているからだと思います。無意識に、月から命が引き出されてくること、この月の満ち引きの間で、地球上にあまたの命が生み出されてきたことを、連想してしまうからです。月は、たとえ話としてするならば、自ら己を見ることができない人間と同じように、地球は地球を見ることはできないけれど、その分の「間主観性」を引き受けてくれている月という天体が、一番、地球とはなんぞや、を示してくれていると言ってもいいわけです。だからどちらかというと、余白に浮かぶ地球よりも、この満月の迫力の方が、よほど、「いのちということ」の39行目の最後の一行にふさわしいのではないか、と思えてしまうのです(勝手に)。そして、この絵に添えられている「鳥ははばたくということ 海はとどろくということ かたつむりははうということ」にあふれている風や躍動、陽光のきらめきは、やっぱり夜の風景ではないような気がする、と、自分の体が言います。この詩は、それほどまでに、自分の身体的な部分をくすぐるのだと思います。日常の風景がぴったりくるように、自分の手足、呼吸、五感、そういう部分に染み入ってくる何かがあるのかもしれません。だから、絵と言葉が合うかどうかを、頭ではなく、むしろ体が判断していて、その体が、ここだけちょっとどうしても(う~~んん)である、といいます。谷川さんのこの詩も大好きだし、この絵本の風景ひとつひとつが大好きだからこそ、やっぱり、強烈にう~ん、になってしまいます。(すみません、以上は私の勝手な感想でした。汗。)