水平線というのはバニシングポイント。
船から見ても高い山から見ても、必ず目の高さにある
(略)
そこが本と似ている気がする。
どんな場所にいても本があれば、
頁をめくることで私たちは"いま・ここ"とは違う場所に入り、楽しめるのだから
NHKのニュースで取り上げられていましたが、本屋さんへの支援基金が立ち上がっているそうなので、リンクを貼っておきます。
支援へ申し込んだ全国の本屋さんの一覧を見ているだけで、ちょっとこみ上げるものがあります。
京都のメリーゴーランドさんや都立大学のニジノ本屋さんの名前も見受けられます。
ほかにも、絵本や子どもの本屋さんらしきお名前もあります(行ってみたいぃ)。
きっと、その町で、大好きな本をとりそろえ、そして、本との出会いを求めて、地元の常連客さんや観光客や、さまざまなお客さんが出入りしていた、それぞれの空間があったのだと思います。
本屋さんを訪問していて思いますが、本というのは並べられてあるだけで、何らかの存在を醸し出す、というか。例えば、大型チェーンの本屋さんがまるで交通の拠点になっている新宿や渋谷や品川などの巨大ターミナルのようなものだとすると、子どもの本屋さんというのは、公園みたいな解放感や憩いのひとときのような場を想像させます。
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プロジェクトの説明文には、本屋さんには
“あらゆることについて書かれた本があります。(略)そのバリエーションの豊かさは、まるでこの世のすべてのものごとに対して、それについて書かれた本が存在するのではないかと思えるほどです。”
とあります。
これは、特に日本の出版界にこそ言えることなのではないかと思います。
どこかで書いたかどうか忘れましたが、本が流通することは、その言語を共有している共同体の血流みたいなもので、その共同体の叡智と財力の表れだろうと思います。
なぜなら、本が共同体に流通する、というのは、何よりもまず、出版技術、そして優れた著作や翻訳を著す文化人層があって、それらを支える高等教育、知識と情報を伝搬させる流通網、流通網を支える交通インフラ、公共図書館の整備とそのための財力、そして一定の購買層、つまりは安定的な中産階級の存在、本への興味をかきたてる前提としての知識欲、好奇心、そして義務教育などなどが前提条件となります。
Foylesの記事かどこかで書きましたが、イギリスの子どもの本コーナーと比較すると、日本の子どもの本が、世界中のあらゆる地域からの物語を提供していることがよくわかります。もちろん、もともと「子どもへの本」という概念が西欧からやってきた、という歴史もあるので、翻訳ものが多くなっている、ともいえますが、それにしても、西欧の書店にはアジアの子どもの本はほとんど売られていません。
これは、中国人のクラスメートがことあるごとに話していました。市場を繋ぐために「翻訳者を育ててほしい」と。でも、その意味は彼らには、ぽかーん、な部分があるようでした。
上野の国際子ども図書館で、さまざまな国の作家さんの講演会ができるのも、日本がそうした作家さんの本を「おもしろいね」と言って出版してきたから。
BSの特集をたまたま見ていて知ったのですが、日本経済は、複雑性と多様性で世界トップらしいですね。
でも、本屋さんに立てば、それもうなずけます。
多様な知識と情報を提供する窓口としての本屋さんの様相は、そのまま、この国がいかにさまざまな毛細血管を、このひょろっとした列島に張り巡らし、人間の活動が温められ、いきづいてきたかがよくわかるように思います。
これはたぶん、巨大な富力です。その規模の問題としてではなく、思想や情報、翻訳言語、ジャンルなどの多様性として。
“それらすべての書店・古書店が、そこに本があるべきだと考えた誰かによって、愛と情熱を持って作り上げられた場所であること。そして、そのそれぞれの場所を愛し、必要とする人たちがいるということです。”
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ちなみに、全然余談ですが、こうした支援をするとき、クレジットカードと銀行振込では、銀行振込の方が、即日(もしくは時間によって翌日)送金が完了するので、緊急性が特に高い場合、銀行振り込みの方が即効性が高いといえる、かもしれません(クレジットカードの場合は、翌月の入金になります)。
このプロジェクトへの案内をブログに埋め込めるらしいのですが・・・、どこを操作したらよいのか (;´・ω・)
ちょっとこれからいじくってみます。