よむためにうまれて

上昇気流にのって旋回する沖合いのカモメのように、子どもの本のまわりをぐるぐるしながら、ぷかぷかと日々に浮かぶマナティのような個人的記録も編んでいます。

A face of your own:『ザ・ヘイト・ユー・ギヴ 』by アンジー・トーマス

"What's the point of having a voice if you're gonna be silent in those moments you shouldn't be?"

ーアンジー・トーマス『ザ・ヘイト・ユー・ギヴ』

 

スターはお父さんから、車に乗っていたときに警察に止められたらどう振舞うべきか、
何をしてはいけないか、を、小さい頃から教えられていて、
それを大切な条項か何かのように、頭の中に一つ一つ再現することができる。
それを覚えておかないと、「いつか」に遭遇したときに、身を守れないからだ。
動くな、と言われたら動いちゃダメだ、
動くな、と言われたら背を向けて歩き出したらダメだ、
動くな、と言われたら決して物を取ろうとダッシュボードに手を伸ばそうなんて思っちゃいけない。
でも、免許証やなんかは、たいていダッシュボードに入れておくだろうに。
年頃の少年なら、ヘアブラシくらいは、入っているだろうに。

動くな、と言われたら、石のように固まって、相手の言うとおりに従わなくちゃ。
 なぜ動いたんだ。
  やましいことがあったからだろう。
   車の中に銃があったに決まってる。
    薬を売ってた、ていう話だ。
     ギャングを撃っただけだの話だ。
      あれは、正当防衛だ。
身の安全を守りたければ、まずは公権力の指示に従うべきなんだ。

と、
そう言っているうちに、それが癖になってそのことに疑問を感じなくなるのは、一種の社会的不感症にかかってしまっていると言えないか。
じゃあ、そんな公権力って一体なんだ。
そうせざるを得ないことと、それを当然だとみなすことは全然違う。

 

スターは、事件の目撃者であり生存者である自分を、まわりから隠そうとする。
見えないところへ隠れ、事実を目撃しなかったかのように、そこに居合わせたのは自分じゃなかったかのようにふるまう。
決して、声をあげようとしない。
あの日、真横にいたのに。
目の前で「銃殺」を目撃し、血だまりができていったのを見ていたのに。
スターに「大丈夫か」と一言声をかけようとしただけで、
ヘアブラシを銃だと勘違いされただけで、カリルは殺された。
一瞬の勘違いと誤解は、恐怖心と怒りをあおるに足るほどの何かなのか。
それは、人の命を奪う正当性に変えられるほどの何かなのか。
一瞬の、わずかに生じる亀裂みたいな誤解が相手の恐怖心を暴発させて、銃弾に変換されて自分の身に返ってきてしまう。
その「自分の存在」とは一体何なのだろう。
そんなモンスターみたいな解釈をされている存在と、
そこまでの恐怖心がガスのように蔓延していて、わずかな亀裂で爆発する空気とは何だろう。

 

事件を境に、まわりの人間関係まで、変わって行ってしまう。
今まで何となく感じていたけれど、確かめないようにしていた友達の人種差別が、露わになる。
火のついた暴動が広がるのと呼応するように、まわりの人たちの本当の感情も、炙り出す。
スターは孤独になっていく。
でも、
孤独から出てこい
話してほしい
あなたの声が要る
と、閉じていく自分自身を、懸命に開けようとしてくれる人や家族もいるのだ。
特に、スターの白人のボーイフレンドは、スターとどこまでも行動を共にしてくれる。
それは、物語の中の希望だ。
ボーイフレンドだけではない。
スターのお父さんが、めちゃめちゃカッコいい。
ギャングのボスにも屈しない。
店を焼かれても、屈しない。
何度でも、同じ町の中で同じ場所でやり直そうとする。
お父さん自身が、やり直した人だからだ。
黒人コミュニティの「内」と「外」の両方に、問題の原因があって、敵がいるようにできている。
スターの家族は、決して社会に向かってのみ立ち向かわなければいけないのではなく、同じ人種のゲットーとも向き合わなければいけない。
それが、この小説の最高にリアルな部分だ。
私たちは事件を外から見るのではなく、内から見ることを許されるのだ。

 

スターは、黙っていることは、カリルの死と生きていたカリルの生の両方への冒涜なのだということに気づき出す。
カリルや、自分につらなるものを、いつまでも恥じて、こそこそしているわけにはいかない、と彼女は覚悟する。

育った場所も、経験してきたことも変えられないのに、どうして自分を形作るものを恥じたりしなくちゃいけないんだろう。

自分自身を恥じるようなものなのに。

(服部理佳訳,岩崎書店

自分のやれること、自分の声を出すことを、スターは信じられるようになっていく。
自分の死、というのは、自分にはもうわからない。
死は、いつだって誰かの死で、残されたものにとっての死だ。

さよならを言うのがいちばんつらいのは、

言う相手がもうこの世にはいないときだ。

カリルの死を引き受けるために証言に立とうとするスターは、あの瞬間を思い出しながら、吐き気をもよおす。
涙を流す。

 

そんな日々をスターと一緒に過ごしているうちに、憎悪や混乱や差別と入れ替わって強く立ち上がってくるものに読み手は気づくだろうか。
この人たちは、ものすごく愛情が深い。
ものすごい愛情表現の豊かさを誇っている。

うまく言えないけど、その目は、わたし自身よりも、わたしのことをよく知っているという感じがした。

わたしを包み込み、身体の中からぽかぽかと温めてくれる。

コミュニティの中に、音楽の中に語り継がれてきた歴史と深い傷から、今でも血が噴き出している代わりに、それを守るように、悼みあうように、お互いに対してまっすぐに愛情を届け合う。
時にケンカをして、ののしりあったとしても、お互いの傷や痛みや苦しみをちゃんとわかってる。
それは誰か一人のものだけじゃないからだ。
みんなで噛みしめている苦さであって、脈々と彼らの血の中に噛みしめ続けてきた苦みだからだ。
心はむき出しになったり、隠されたり、見つめ合ったりしながら、彼らは今もどこかで開きっぱなしの傷口を共有しあう。
抱きしめあう。
だから、この人たちは、ものすごく愛情が深くて、強い。

みんなも戦っている。戦う価値のあるものなんて、ほとんどないように見えるガーデン・ハイツの人たちも。

みんな気づいて、声をあげ、行進し、正義を要求している。

忘れることは決してない。

それがいちばん大切なことだと思う。

 

物語の中で使われる「声」という言葉は、どこかのサイバー空間上に浮いているだけの根無し草な声なのではなく、
実際の空気を震わせて届けられる声であって、
それを届けることは、
語ること、自分の信じる真実をあかすこと、誰かに直に伝えることを意味している。
その意味は、きっと日本社会の文脈では、半分も理解できないのではないか、と思う。
でも大丈夫。
読み終えるとき、カリルの死を、スターと一緒に悼んでいる自分がそこにいるから。
絶対忘れないよ、と思うから。 

スターは、立ち上がって群衆に語りかける。

今も、世界に向かって語りかけてる。

そんな姿に、

全く場所も時代も違うけれど、

小さなミーの、めちゃくちゃカッコイイこの言葉が、

応えてくれているように思う。

 

'You'll never have a face of your own until you've learnt to fight. Believe me.'
(by My 'with a menacing look')
ーTove Jansson ’The Invisible Child’ 

 

そして、私はこの言葉に賛成だ。