よむためにうまれて

上昇気流にのって旋回する沖合いのカモメのように、子どもの本のまわりをぐるぐるしながら、ぷかぷかと日々に浮かぶマナティのような個人的記録も編んでいます。

『君の名は。』と『あやとりの記』と往還道①

こんにちは。明けましておめでとうございます。

 

さて、超遅ればせながら、先日地上波で『君の名は。』が流れていたので

初めて観ました。

これが流行っていたときは、長期出張があったりして、ほとんど日本にいなくて、

流行っていること自体を知りませんでした。。

特別アニメに興味もない人間なので、「この現象は何?」と思っていたくらいでした。

 

テレビを回していたらやっていたので、(あ、これ観てたら11時になってしまう~)と思いつつも、ついつい途中から見始めて、最後まで見てしまいました。

かろうじてストーリーを追えるところから見始められたかと思います。

  

映画の感想を書きたいわけではなく、

その前日にちょうど読んでいた石牟礼道子さんの『あやとりの記』(福音館書店

共通するところがあるな、と思ったのです。

『あやとりの記』は、あらすじというあらすじがある物語ではなくて、

主人公のみっちんの周りにいる“こちら”と“あちら”を往き来できるような、

ちょっと不思議で切ない過去をもつ人たちとの話が、

さらにみっちんを取り囲んでいる自然、海、大木、川なんかの、

やわらかな描写とあわせて編まれていきます。

まるで直に風や光を感じられるような描写です。

一章、一章、短編を集めていくように静かに物語りは進みます。

特に、第四章のヒロム兄やんと、第七章の犬の仔せっちゃんは

胸が苦しく締めつけられて、泣かずには読まれません。

(そうした、この物語が放つ切ない夕暮れの光の印象が、

映画の光の描き方ともかぶったのかもしれません。)

 

私はまだ熊本にも九州にも上陸したことがないのですが、

(ごめんなさい。地震のときも豪雨のときも、お手伝いに行けませんでした。。)

この中の世界観は、海と川の水と、山の両方とともに生きてきた

日本人の原風景だなぁ、と思ったりします。

いえ、“ともに生きてきた”

などという陳腐な表現では追いつかないものがあったかもしれない。

それらと一体になりつつ、離れつつ、往き来をしながら生きてきた、

もっと混然としたものだったと思います。

 

石牟礼道子さんの子ども向けの物語を、私は大人になってから読んで、

(しまったぁ~、子どものときに読みたかった・・・。)

なんて初めて読んだときは思いましたが、

今は関係なかったかもしれない、と思います。

何歳になっても、この島国で生まれ育った人間の根底のどこかに、

かすかにこういうものが澱のように沈んでいるのじゃないかと思うからです。

だから、何歳で読もうと、

きっとこの風景は自分の中にあるどこかの風景ー特に、どこかの夕景と、

重なり合う力があると思います。

 

で、君の名は。を観終わって、もう一度『あやとりの記』をぱらぱら捲っていて、

その思いを強くしました。

(つづく)