よむためにうまれて

上昇気流にのって旋回する沖合いのカモメのように、子どもの本のまわりをぐるぐるしながら、ぷかぷかと日々に浮かぶマナティのような個人的記録も編んでいます。

帰国便にて、2019年初読了本:”North to the Orient” ー さよなら考

年末から年明けにかけて一時帰国していました。

3週間くらいもあったので、デジタル資料を大量にブックマーク&ダウンロードし、

本も10冊くらい年明けの課題用の資料を詰め込んで帰国しましたが、

結局、、、わかりきったことではあったけど、

半分もやっておこうと思ったことをできないままでした。。。

地元とはかくも居心地のよい環境でございます。

 

とはいえ、12時間以上かかるフライトは、至福の読書タイムでもあります。

機内の窓際の席に体を落ち着けて、食事も飲み物も時間がきたら運んできてくれる、

こんなすてきな“動く喫茶店”もないもんです。笑

だいぶ読書がはかどりました。

初読了本は、かねてからずっとイギリスへ行ったら手に入れたい、

と思っていたアン・モロー・リンドバーグNorth to the Orient でした。

 

 

 

この本のことを知ったのは、もう何年前か忘れてしまったけれど、

大好きな須賀敦子さんの『遠い朝の本たち』の中でみつけた。

アン・モロー・リンドバーグの本と言えば、『海からの贈り物』が

よく知られていて、この North to the Orient はあまり知名度が高くない。

調べてみると、みすず書房からの邦訳があるようだけれど、

須賀さんが感動したように、何とか英語の原文で読んでみたい、

という想いがあった。

しかし、たった一冊のために高い送料を払って海外から取り寄せる勇気もなく、

留学が実現したらイギリスで手に入れようと思っていた本の一つだった。

 

古本検索サイト(「日本の古本屋」のイギリス版みたいなサイトで、AbeBooksというのがあり、中古本だとアマゾンより安かったりします)から一番安い値段のものを取り寄せると、ジャクリーン・ウィルソンの本みたいなショッキングピンクが帯状に上下に入ったデザインで、ただでさえソフトカバーなのに表紙の端はだいぶ擦り切れていた。読んでいる間にどんどん擦り切れがひどくなったので、一時帰国時に木工用ボンドを端にそってぐるっと塗って補強した。これからどこへ引っ越すにも、この本は外せないな、と確信をしているので、末永く「古本」であってほしい。

そんな本がいくつかあって、今回イギリスへ来るときに選んだのは、新潮文庫の『銀河鉄道の夜』と、これはどこに長期滞在するにも必ず持っていく私の中ではバイブルと言ってもいいM.ブーバーの『我と汝・対話』(岩波文庫)。

 

私が最も読みたかったSayonaraの章は、第22章。

旅の最終盤に登場する。

リンドバーグ夫妻がニューヨークを出発し、

カナダ、アラスカ、カムチャッカ、千島へと横断し、

さらに日本列島から中国大陸へ渡る旅を終え、

上海からアメリカ大陸へ戻る際の章だ。

港で手をふる日本人の「さよなら」が、唯一知っている言葉として彼女の耳にとまる。 

 

「さよなら」は、Good-byeとは違う。

 

と彼女は書く。

次にまた会えるように、だとか、

別れたあとの幸運を祈って、だとか、

私と別れても、神があなたとともにある、だとか、

そのような父性的・母性的別れの挨拶ではない、と。

「さよなら」は、文字通り訳すなら

'Since it must be so.'

「左様ならば」

そうであらねばならぬのならば、これにて、というのだ。

 

須賀さんは、英語、フランス語、イタリア語を操れて、

ヨーロッパに長くいたけれど、

さまざまな喪失を経験している。

エッセイに多く登場するお父様を亡くし、

そして旦那さんを亡くしている。

悲しいとか、何かを祈る、とかポジティブだったりネガティブだったりする言葉ではなく、事実がそのようにある、あるいは、事実はそのようになくとも、心に残っている風景はそのようにある、と綴られた数々のエッセイは、むしろ余計に、ぽっかり空いた穴として、喪失それ自体、郷愁それ自体を、そのまま、そこにおいておく。

 

あなたの国には、さようならがある。

 

といわれたような気がした、と確かそのような感動を綴っていたと思う。

 

左様なら、とは、単なる接続句にすぎない。

そこまでの時や言葉や出来事をすべてひとまとめに、

そういうことなら、と一言いって「ひきとる」行為だ。

意味はともかく、外国人の耳には、この言葉は音として美しいらしい。

おそらく、現代日本語50音の中でも、随一の美しくてせつない響きをもつ

さ行、や行、ら行から3つの音が入っているからだろう。

あるいは、単なる接続句の中に、長い年月によって縮められた潔さと礼儀の双方が、

音といっしょにわずかに残って響くからかもしれない。

 

Sayonara says neither too much nor too little.

It is a simple acceptance of fact. 

All understanding of life lies in its limits.

All emotion, smouldering, is banked up behind it.

But it says nothing.

 

私たちは日常ではなかなか「さようなら」とは言わない。

「じゃあまた」とか、むしろ時々、「ありがとうございました」と言って別れる。

有難い、というのもまた、日本語らしい大仰さの残る挨拶だ。

impossible to be, unimaginable to happen

起こったことや出逢ったことを真正面からみとめると、

むしろ物事に信じられない奇跡を見出せるのかもしれない。

それはちょうど、さよならの裏返しのように、

出来事を思い切り抱きしめて、返す言葉でもある。

こんなことがあるなんて、ありがたい。

あなたと出会えたなんて、ありがたい、と。

 

 

ありがとうは、さよならの別の言葉だ、と気がついたのも、去年のことでした。

年が明けて、さよなら、を、

ただシンプルに、そっとおくように言ってみたら、

東の空に、月と金星が大接近しているのが見えました。 

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 ( 月と金星の接近。まるで空がウインクしているみたい。)

 

 

さあさあ、ブログで2000字以上書いてる場合じゃない!><

3本合計で8000字超のアサインメントが控えているんだ~(溜息)

 

こんな地味で声の小さなブログに訪れてくれる皆さまの2019年が、

どうか、よい一年となりますように、と願っております☆