よむためにうまれて

上昇気流にのって旋回する沖合いのカモメのように、子どもの本のまわりをぐるぐるしながら、ぷかぷかと日々に浮かぶマナティのような個人的記録も編んでいます。

’Julian Is a Mermaid’③:絵本の周辺

 前回と前々回☟からのつづきです。

nplmanatee.hatenadiary.jp

nplmanatee.hatenadiary.jp

最初の記事で、このJulian Is a Mermaid という絵本には多くの賛辞が向けられている一方で、そうではない意見もあるということをちらっと書きました。

今日はそのことにもふれてみたいと思います。

 

実はとあるアメリカのブログは、この絵本は#OwnVoices のムーブメントに反している、として「Non」をつきつけています。

 

#OwnVoicesとは、英米を中心に広がりだしている「当事者の物語は当事者が作者であるべきだ」という機運のことで、#MeTooと同じようにハッシュタグをつけて#OwnVoicesとして、徐々に拡がりを見せています。

 

例えば、今までは主人公が黒人の少年少女であるのに、作者やイラストレーターが白人、という作品も多くありました。

オリエンタリズムコロニアリズムからも言えることで、欧米の作家による「日本」の描き方が中国文化っぽかったりするのも、この問題の範疇に入ってくるものです。

私も大学の図書館でSuki's Kimono (2003)というカナダの絵本を見かけて開いてみましたが、日本のお祭りの描き方が日本ではなく中国に似せたイラストになってしまっていることに、非常に残念に思いました。でも、細かな実際の文化がマスな流通経路に乗る際、別のよく知られたものに置き換えられ、単純化されて、文化が「切り売り」されていく。これはよくある現象です。

 

しかし、たとえ今まではよくある現象だったとしても、

もう、これからはやめましょう、

というのがこの#OwnVoicesの動きです。

出版社によっては、すでに今後、テーマや主人公の設定の当事者ではない作者の本は出版を断る、と表明しているところもあるようです。

 

Julian Is a Mermaidの場合(あらすじは冒頭2つ目の過去記事を参照)、本のテーマはトランスジェンダーですが、作者の性は女性であって、トランスではありません。

また、ジュリアンとおばあちゃんを描いている設定は、カリブ系アメリカンですが、作者のジェシカ・ラヴは、白人です。

 

作者がトランスではないために、この絵本の主人公はトランスの子どもたちが直面しているであろう困難が描かれていない、という批判は、尊重されるべきだと思います。

しかし、ジェシカ・ラヴがそのことを全く知らずにこの絵本の創作に取り組んだわけではありません。彼女はインタビューで絵本をつくるきっかけとなった出来事を語っています(以下の記事は、トランスジェンダー等の情報サイトにおけるインタビュー記事です。「Jessica Love Interview」でググれば他にもたくさんの記事が出てきます。それだけ、このデビュー作で彼女がいかに注目を集めたかが覗えます)。

www.pinknews.co.uk

 

彼女の友人に、トランスの方がいて、その人は、人生の長い期間、そのことを公にすることができなかったそうです。そこから、彼女はこの問題を調べていくうち、同じような悩みを抱えた子どもたちの親御さんのブログに行きつき、それをすべて隅々まで読んだそうです。

そして、苦しい現実を生き抜いている人たちにとって、そこから逃れてしばしの間、心をほぐすプラットホームのような場所を、という想いでこの絵本を描き上げたそうです。当初は、これほどのブームになるとは予想せずに、むしろ「自費出版」がせいぜいだろうと思っていたようで、それは、本屋にいっても、なかなかLGBTQ+のための子どもの本が見当たらなかったからでしょう。

今、ブームになっている欧米でさえ、最初はそうしたジャンルは出来ていなかったわけです。ましてや、この本のように、対象がヤングアダルトではなく、ティーンエイジャー前、つまり小学低中学年のトランスの主人公を扱っている児童書は、数えるほどしかなかったわけです。

だからこそ、きっとJulian Is a Mermaidの日本語版も、もしかしたら、ここから日本においてこうしたジャンルがもっと広く扱われるためのきっかけとなるかもしれません。

 

冒頭の、同作を批判しているブログのコメント欄には、他の意見を投稿している方もいらっしゃいました。

その中で、図書館の司書をされているプラクティショナーの方は、「この絵本は今、'vital'= 重要で、無くてはならない」とコメントしていました。

それは、これまでのLGBTQ+をテーマにした本の中では、必ず主人公が直面する苦しい現状や、家族との不和が描かれるものが大半であったのに対して、この絵本が、主人公の在り方を、主人公とおばあちゃんとの二者の関係性だけに依拠して、何にもよらず、ただ、そのままでいい、と主張しているからです。

そうした性で悩む子どもたちが、日常的に苦しい思いをしているのに、本の中でまで難しい現実を、その子に見させる必要があるんだろうか、と、その方はコメントしていました。

 

最新のコメントは、あるゲイの方のコメントで止まっていました。

その人は、「ここに自分の小さい頃を見た」と書いていました。お母さんの鏡台で遊んでいた自分を見出した、と。留学中に知り合ったゲイの友人も、この絵本を初めて読んでもらったとき、全く同じ反応をして、笑っていました。

 

イラストレーターを目指しているクラスメートにも、この、「当事者でなければ創作してはいけない」という考え方について尋ねてみると、

「でも作者にも、創作する権利があるじゃない」

と、あっさりと答えが返ってきました。文筆の仕事をしていると言っていた文学部所属のクラスメートも同じことをクラスで話していました。

 

難しい問題ですが、これは別の角度から考えれば、児童文学の在りようが垣間見えます。

例えば、パラシオのワンダー も、パラシオ自身が、この本のテーマとなっている障害のある子どもと実際に遭遇した経験がなければ、生まれてこなかった作品です。

そう考えると、

児童文学というのはいつも、「自ー他」の関係性をもとに、他者との遭遇による爆発や痛み、涙、あたたかさ、楽しさなんかから編まれていく真珠のようなものだな、

と、私はそう思うようになりました。

 

 

ご興味もたれた訪問者の方がいらっしゃったら、ぜひ、プロジェクトのサイトをのぞいてみてください。

greenfunding.jp