今日も東京は晴れ。
マスクの人がたくさん。
自分の手持ちのマスクもあとわずかで、来週あたり、実家にマスクをもらいに行ってこようかと思う。
おととし他界した祖母の介護用品の残りに、マスクがあって、捨てずに取ってあった。なんだか、おばあちゃんが、こういうときにまだまだ助けてくれているみたいで、胸がいっぱいになる。
JBBYのウェブサイトに、国際子どもの日のフェスティバルのお知らせが出た。
今年のポスターのイラストを担当したソロべニアから、作家さんのメッセージが掲載されていて、これが胸に沁みたので、ブログにも転載しておきたくなった。
タイトルは、「言葉に飢えるということ」。
詩や、物語の言葉は、心のたべものだ、というおはなし。
本当に、そうだなぁ、と思う。
お腹がすいているときは、とにかくたべもののことが頭に浮かんで、たべものばかり目につく。お腹がすいていてコンビニに行ったりすると余計なものを買ってしまうように。
一方、心が空腹なとき、人は心が冷たく凍えていることに気がつかないまま、いらいらしたり、傲慢になったり、暗くなったりする。「まわりの世界の一部が、知らぬまに逃げ去ってしまっていることも」 気がつかない。
人間は、いつだって、黒か白かではなく、善か悪かではなく、どこまでいってもグレーな存在で、良くも悪くもあるのに、人は、そんなことをすっかり忘れて、真っ白な定規を他人にあてたりする。
白くありたい、と願うのは、とても尊いことだけれど、ちょっとだけ、「物語」がたりないな、と思う。人間としての物語が、たりていないのかな、と。
グレーな人間を、グレーだからこそ、と思えるのも、白くてやさしい行為だと思ったりする。
メッセージ文では、作家は木のようだ、と書いている。
芽吹いては、秋になって葉を落としても、季節がめぐれば、また物語の葉をしげらせる。
樹木をはなれた葉は、風に飛ばされて、だれかのもとへ届く。
落ち葉はその人の土壌で養分となって、すこしずつ、しみていく。
微細な毎日の営みが、微生物のようにして、その葉を分解し、心が天にむかって手をのばし、育とうとするのを、たすけてくれる。
物語や詩は舞いあがって、あらゆる方向に飛びさってゆくのです。くりかえし、くりかえし。