よむためにうまれて

上昇気流にのって旋回する沖合いのカモメのように、子どもの本のまわりをぐるぐるしながら、ぷかぷかと日々に浮かぶマナティのような個人的記録も編んでいます。

(タイトルはありません。)

経済や法律も含めて人間の決め事はいつ変わるかわからない。だから、あまり執着しない方がいいです。人間の社会はそれ自体がヴァーチャルで、「自然」に対しては「嘘」だから、ルールは大事だけど決め事を中心に考えるのは好きじゃない。

  ―楳図かずお「戦争より、もっと怖いもの」

  (岩波新書『子どもたちの8月15日』より)

 

梅雨が明けて、ずいぶんと長いトンネルを抜けたような気がするけれど、この猛暑。

ウイルス、豪雨、長雨、猛暑、と、目白押しの2020年。

そして、感染者の増加も止まらない。

基本的に、心身ともに小動物クラスだと思って生きてきた身としては、

(そろそろ外に出られるかな?)

と「鼻をくんくん」して様子をうかがっていたら、あっという間にまた外出を慎重にしなければいけなくなってしまった。

留学から帰国する際に、古くなった服やもうあまり着ない服をチャリティに出して、多少なりとも荷物を減らして帰ってきたために、気づいたら毎日着ている夏服が3パターンくらいしかなくなってしまい、もう少し持っておいてもいいだろう、と、たまに服をネットで注文したりしたものの、結果、ことごとく返品した。。。

洋服のネット通販なんて普通だし、自分でも時々利用していたつもりでいたけど、今はなんだか、物を見て、触って、試着してから決めたい、と思った。

実際、先日ふと通りかかったお店で、ちょっと手に取ってみた服を試しに着てみたら、気に入って買ってしまった。

着てみてどう思うか、触ってみた布地の感じはどうか、色はどうか、とか、やっぱり実物を見ないと全然わかるものではないし、もう一つ、「家の中で試着する」というのと、「お店で試着する」というのは、いわゆる「コンテクスト」が違うのだろうと思う。

そこには店員さんがいて、ちょっとだけ、(人から見たら、どう見えるだろう?)という客観的な視点とか、(本当に私の体形にあっているのか?年齢層的に自分は大丈夫か?)など、社会的な層の中の自分として試着することに意識が働くような気がする。

買い物は、たぶんそのコンテクスト自体も楽しんでいるのだろうと思う。

当分、買い物は、ネットではしない、と思った。

 

この夏の、キャンペーンやら帰省の是非やら、何を言い、何を言わず、何を言うべきで、何を決めるべきなのか、とか、さまざまではあるけれど、こういう議論はこれはこのままにもうこれだけで十分では、と、少しだけ思っている。

この半年ほどで十分わかったことは、日本人はとにかく、言われたことは何となく、ああそうですかと言って守ることだ。

マスクをしたくないと言ってデモをすることもないし、外へ出せ!と権利を主張することもしない。

だから、強く言われれば、強く守ろうとするし、何が何でも守るべし!と思うようになる性質は、「まだまだ」健在なのだと思う。

そんな日本人にとって一番苦手なものが、《自分で適宜決めて行動してください》と言われることだとしたら、やっぱり少しは自主性を養った方がいいだろう、とも思う。それができない輩もいるのだよ、という意見もあるだろうけれど、それでも、成熟は、そこを越えなければ得られない。

最近読んだアメリカのYAに、主人公の友達に日系の少年が出てきて、彼は数字と統計が好きで、両親が教育熱心で、厳しく成績を管理されている。今までどんなことにも従順だった彼が、仲間と一緒にそんな日常から出ていき、初めて学校をサボる。

これはちょっとステレオタイプな日本人だよね、と思ったと同時に、2020年の8月の今、ルールや法律じゃないところで、何をなすべきか、何が最善か、を、自分の頭で考える訓練も要るよね、とも思った。少なくとも、自由な国に生きてはいるよね、と。

 

冒頭の楳図かずおの文章は、最後こんなふうに終わる。

破滅って現実を嘘が越えたときに始まるんですよね、これは間違いなく。だからこそ、破滅を避けるためにも、「畏怖」の感覚がないとだめだと思うんです、絶対に。