よむためにうまれて

上昇気流にのって旋回する沖合いのカモメのように、子どもの本のまわりをぐるぐるしながら、ぷかぷかと日々に浮かぶマナティのような個人的記録も編んでいます。

嗚呼、昭和生まれ。

... every beginning, every operning page, has in it an echo of what has gone before. Literature is a chain in which every link is connected to the one before it and the one after. And so is life.   

 ——— by Susan Cooper

 

国際子ども図書館でやっている、「平成を彩った絵本作家たち」展を見てきました。

 

・・・と、それを受けてのこのタイトルなわけです(笑)。

自分の中に ‛昭和’ があることを実感しました(笑)。

なぜでしょう。こんなふうに時代を変化させていく国は、めったにないよなぁ、と思います。元号という時代を括るもうひとつの「単位」を持ってる国って、他にないよなぁ、と、令和になって以来、時々そんなことを考えます。

祖母や祖父が、大正から昭和、平成、と生きていて、何となく元号を3つ跨げたら凄い、という勝手なイメージが小さい頃からありました。

ところがどうでしょう、気がつけば自分も元号を3つ跨いでしまっているわけです。

令和になってから、ことあるごとに友人たちに云っていることが、

「おばあちゃんになった気がする」

と。

留学から帰国して、玉手箱を海岸で開けてしまった浦島太郎の気分がずっとしていました。どうしてだろうどうしてだろう・・・と考えて、

はっ!Σ(・□・)

と思い当たったのが、日本を離れて帰ってきたら元号が変わっていた、という事実です。

しかもこの「れいわ」という音のきらきら感が、まさにキラキラネームのような響きを感じさせる。ような気がする。よく分かりませんが、元号が「ら行」から始まる、ということに、物凄くきらきら感を感じる自分の耳があるわけです。

わざわざwikipedia元号一覧で、過去のら行始まりの元号を数えてしまったほどです(過去に3つしかありません)。しかも今現在、カタカナを多用するようになった日本語の中でのら行は、音の意味が少し違うのではないか、とひそかに思っています。

 

さて。国際子ども図書館の展示のおはなしです。

展示の始まりが、昭和の名作絵本だったことに、まず物凄く納得し、その際、展示を見ながら冒頭のスーザン・クーパーの言葉を思い出しました。

全ては、その前に経てきたものの中から湧き上がる。

平成の絵本作家の前に、昭和の名作がある、というのは本当にそうですね。

でも、こうしてみると、長新太かこさとしのイラストに目がなじんでいた幼少期を、嗚呼、昭和生まれなんだと実感させられたわけです(笑)。

いまだに、全然関係のない海外の絵本を読んでいて、ふと、ああ、長さんてすごかったんだな、と新たに発見することもあったりします。

 

「これ読んでた~」とか「これうちにある~」などとおしゃべりしつつ、自分の幼少期は果たしてどこらへんの作家さんとともに過ごしたのか、確かめながら見て回ると、すごく楽しいと思います。

そういう意味で言うと、ヨシタケさんは本当にすごいな、と今回あらためて思いました。

何というか、ヨシタケさんの絵本て割とこうした歴史から見ると最近にあたりますが(『りんごかもしれない』は2013年出版)、もうすでに、ヨシタケさんの絵本をずっと前から読んでいたような、何か自分の奥の方にずっとある「おもしろい!!」とか「ふしぎ!!」とか、そういった感覚と共鳴するような本だな、と思います。

『なつみはなんにでもなれる』も、『星の王子様』の冒頭の場面を彷彿とさせる楽しさがあったりして、大人になっても一緒に楽しめるなぁ、と感動したりします。

 

「平成を彩った絵本作家たち」展は今週末までです。