よむためにうまれて

上昇気流にのって旋回する沖合いのカモメのように、子どもの本のまわりをぐるぐるしながら、ぷかぷかと日々に浮かぶマナティのような個人的記録も編んでいます。

なんにもごようはないけれど

前回の記事のついでに、もうひとつ。

上野の駅が改装工事が終わってきれいになっていますね~。

 

その構内に、来年には中国に行ってしまうシャンシャンの成長記録の写真が飾られていて、それがとっても可愛いいです(*^-^*)

写真を撮った方の愛情も感じられるような写真ばかりです。

籠の中に入っているまだまだ赤ちゃんだった頃のシャンシャンから、おてんばになり始めたシャンシャンまで、写真に当時の年齢も付されているので、本当に、成長アルバム、という感じでほっこりします。

私が特に気に入った写真はこちらです☟💕

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《ねえねえ おかあさん ねえねえねえねえ あのね おかあさん あのね》

と言ってるみたいですっっっごく可愛いなぁ、、、としばし立ちつくしてしまいました(笑)。

はしごの丸太と丸太の間に挟まっている感じがたまりません。

お母さんの、「ハイハイ、そんなに呼ばなくてもきこえてますよ」と言ってそうな背中も素敵です。

西条八十作詞の「おかあさん」の童謡みたい。

 ♪ なんにもご用はないけれど~ なんだか呼びたい おかあさん ♫

と歌いたくなってしまう写真です(笑)。

私はこの歌詞が好きで、「なんにもご用はないけれど」の一句の「御用」の中にある日本語の丁寧な感情、といいますか、"きちんと" した暮らしぶりの基盤みたいなものがいいなぁ、といつも思います。

 

須賀敦子さんの「ある日、会って…」というエッセイで、須賀さんは久しぶりにイタリアへ旅に出る朝、空港までのリムジンバスを待っていて、近くで同じようにバスを待っているふたごの少年二人と、その姉らしい少女を見ながら、ふと気がつきます。

彼らがじゃれあいながら、手話で会話をしていることに。

その「彼らの手の動きが、なみはずれてうつくしいことに」。

手話、といういわば非常の手段を、こんなにも愉しげに、こんなにも人まえで気持よく使いこなせるこどもたちの背後には、しっかりとした日常の心づかい、たとえば靴を脱いだらちゃんとそろえなさい、そんな大きな声でおかあさんを呼ばなくても、ちゃんときいていますよ、といった人間ぜんたいとしての感性のようなものが、たぶんこの母親らしい女性によって少年たちに伝えられ、みがかれていったのではないかと思いあたって、私は、彼女のうしろ姿をもういちど眺めた。

    ― 須賀敦子『旅のあいまに』より

とても短いエッセイですが、私は須賀さんのエッセイの中でも最も好きなもののひとつです。時には涙が出そうになるエッセイです。

「ちゃんとそろえなさい」「ちゃんときいていますよ」と須賀さんが思い浮かべるその母親の言葉は、須賀さん自身の夙川という土地で育った少女時代と、聖心女子大学に学んだ人生の "土台"、つまり育ち がしみこんだ上でのものだと思うのです。

でも、この「ちゃんと」という言葉に入っている「人間ぜんたいとしての感性のようなもの」の意味は、すごくよく分かるような気がします。

こういう土台ってたぶん、大正時代が最後だったのかなぁ、なんて、思ったりします。今年は、こんなに家にいたこともなかったというくらいの年になったけれど、私は、専業主婦で家の中にいるばかりの毎日でも、「きちんと」していた祖母のことを、思い出したりしました。

そしてもう一つ、この手話の「なみはずれた」うつくしさも、本当にそうだな、と思います。

言葉に元気がなくて、上っ面で、軽々しくて、よそよそしくて、他人事で、形式的で、事物の切り貼りで、そのことに辟易してしまうとき、手話の身ぶり、手ぶり、そして顔の表情で伝えるエネルギーが、話される言葉以上のうつくしさと、まっすぐ向かっていく強さをたたえていることに、はっとさせられることは、確かにある、と思います。

 

全然、シャンシャンと関係のないはなしになってしまいましたが、シャンシャンのポテっとした体躯からだって、伝わるものはあるよな~、パンダの様式美みたいなものがあるとしたら、シャンシャンは「ちゃんと」パンダしているよな~、なんて思いました(笑)。

 

なんだか、こんなに成長をみんなに見守られて、愛されているのに、いつか中国へ行ってしまうことが切ないです。

元気に大きくなっていってほしいです。