よむためにうまれて

上昇気流にのって旋回する沖合いのカモメのように、子どもの本のまわりをぐるぐるしながら、ぷかぷかと日々に浮かぶマナティのような個人的記録も編んでいます。

外は雪

ベストセラーになっている『スマホ脳』、読んでみました。

 

自分でもときどき中毒になってきているんでは、と思うときがあります。

特に去年は、家にいざるを得なかったことと、このウイルスが地球まるごと席巻していく時々刻々に、常にそういった情報をチェックしてしまう自分がいました。

作者がスウェーデン精神科医の先生なので、スウェーデンメンタルヘルス事情も知れるんですけど、スウェーデンも結構やばいことになっているんですね。

リンドグレーンが知ったらどう思うんだろう・・・と思います( ._.)

スマホなんて持ってないで、外に出て思いっきりあぶない遊びをしようぜ!というかもしれないですよね。「あぶない」というのは夜の街にくりだそう、とかいうことではなく、リンドグレーン自身が自分の小さい頃をふりかえって、よく死ななかったな(笑)、と思うくらいとびはねて遊んでいたんだそうで、大人になって思えば相当危険なことをして遊んでいたということです(逆に言えば運動神経がめっちゃくちゃよかったんじゃなかろうか・・・)。

 

さてその『スマホ脳』の中で、映画や演劇ではミラーニューロンは働かない、ということが書いてあって、そこに読書が入ってなかったので、読書はどうなのかね?と思いました。

📚

 

ミラーニューロンのことで思い起こされるのはニコラエバの論文。

ニコラエバはYAの作家がいかにこの不安定な時期の若者のものがたりを紡ぎ出すのか、ということにミラーニューロンを持ち出したり、『秘密の花園』の分析で、いかに共感を働きかける語が入っているかを論じたりしている。

(そのあたりから何となく私は、スーパースターのような存在だったニコラエバに「共感」ができなくなっていくのよねぇ。)

ミラーニューロン、という物理的な神経系統の名前よりも、間主観性、という言葉で考える方が、その中に人間がよりつまっているような気がする。ミラーニューロンは一人の人体の一部のはなしだけど、間主観性は全人格的に二者を要するから。

「人間」という言葉みたいなもので。

 

間主観性ということで言うなら、子どもの本の中には、この要素をあっちにもこっちにもそっちにも・・・いたるところで探しだすことができる。

それは子どもの本が、

いっしょに行こう

こっちにおいで

ここにいるから大丈夫

あなたを抱きしめよう

という表現をその中に組み込んでいるからだ。

それはどっちかというと、もう「うた」に近いんではないかと思うときがある。

 

結局、世界を見たければ、スマホを置いて自分の目で見るしかない。

自分を世界に対して真正面の角度に据えるしかない。

その角度ってじゃあどこなら見つかるんだろね、というあくなき宝探しを人間はずっとしているんだねぇ、と思う寒い一日。

 

今日は雪になりましたなぁ。