よむためにうまれて

上昇気流にのって旋回する沖合いのカモメのように、子どもの本のまわりをぐるぐるしながら、ぷかぷかと日々に浮かぶマナティのような個人的記録も編んでいます。

魔法の近似値

8月がもうあっという間に半分終わっていきそうで、焦っています。

 

閉会式も、開会式に負けず劣らずのチープさでしたね。そう云わないわけにはいかないものがありました。

アートとかクリエイションとかがおもしろくなくなる時代は、お金の問題とかではなく、人間の自由さとか、勢いみたいなもの、反骨精神とか、要するに生きてるぜ!ていう瞬間が、その集団のなかに少ないからじゃないか、と思わないではないです。単純な閉塞感という言葉だけでなく、自分の内に籠ってしまうような消極性、内に籠ったままで満足してしまう停滞性と挑戦を惜しむ怠惰が社会のどこかに沈殿しているのではないか。そのことを"明晰に"認識しないかぎり、先へ行けないということなのかもしれない。あーだこーだといろいろな意見はあるのだろうと思うけど、「人間は年に一度くらい真面目にならなくっちゃならない場合がある。」(『虞美人草』)「日本より頭の中のほうが広いでしょう」「とらわれちゃだめだ」(『三四郎』)と明治を生きた夏目漱石が書いたとおり、この意味を問わないと次の時代を開くことができないままかもしれない。日本はいつも外から変革がやってきたから、自分で自分を壊すのがものすごく下手なのかもしれない。

次のパリ五輪、フランスの大統領は史上最年少で大統領になったんだっけ、と思いながら、躍進したアスリートに反してこの国の体力がへとへとになっていることをしっかりと心に刻み込みました。

 

それはおいといて。

今日はちょっと違うことを書きたかったのです。

開会式のドローンにしても、閉会式のこの写真の場面☟にしても、思い出したことがあります。

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気づいてらっしゃった方もいると思いますが、ハリー・ポッターは随所にデジタル技術が浸透した社会の影響があるなぁ、と思っていた部分があって、これは特に映画で観るとそういう要素がよくわかります。

例えばシリウスとコモン・ルームの暖炉の火を通して会話をする場面とか、完全にオンライン会議(笑)ですね。ときどきハリーが読んでいる新聞の写真が動くのなんかも、iPhoneのliveモードの写真のようだし、再生を押さなくても勝手に映像だけ動き出すYouTubeのようです。

もちろんJ.K.ローリングがハリー・ポッターシリーズを書いたときは、まだまだここ10年の「爆速」とも言いたいデジタル革命の影響はなかったわけですが、ポスト・コロナの日常の変化や、ここ数年スマホで可能になったことの数々は、先取りしていたかのようにハリー・ポッターの魔法と重なりあっています。こういう技術の影響は作家の意識下でとても大きく働いていたと思うし、そうした要素が子どもや大人がハリー・ポッターの世界観に没頭しやすい何かをつくりあげていたと思います。

もはや、ヒーローは『指輪物語』や『ゲド戦記』のように、てくてく歩いて過酷な道のりをゆかないし、オールを漕いで海へと漕ぎ出さないのです。

ほうきであっという間に駆け抜けていき、パウダーひとふりでダイアゴン・アリーへ瞬間移動するのです。

これはもう、物語にとってオデュッセイア』以来の大変革だと言いたいです。

さてそこで、オリンピックの開閉会式とあわせてハリー・ポッターのクイディッチW杯の場面を思い出してみて下さい。

例えばこうしたシーン☟

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こんなことを私たちは今、ドローンやプロジェクションマッピングでやっています。

ハリー・ポッターのなかの魔法は、完全な魔法ではなく、私たちの近未来であったと言ってもいいです。ハリー・ポッターシリーズのあそこまでの熱狂は、この近未来への親近感もあったかもしれないですね。

つまり、随所に輝くちょっと背伸びすれば手に入りそうな魔法が効いたのかもしれません。"マグル"な私たちの先をゆく魔法と、ロンのお父さんを夢中にさせるような愚直な人間の科学技術。その技術に対して近似値としての魔法が満載だったと言っていいでしょう。

 

そうして見るに、開閉会式には人間らしい魔法はなかった・・・。

 

閉会式に突如でてきた宮沢賢治の「星めぐりの歌」も、もっと素敵な演出なら意味不明感はなかったかもしれません。

常々、賢治は日本が世界にもっと誇っていい作家だと思っているので、他国の中継のために星めぐりの歌の歌詞とかも、英訳が付されていたのかどうかが気になります。

賢治はたぶん岩手出身ということで「復興五輪」絡みで出て来たアイデアでしょうが、それでも、賢治は日本の最後の良心ですね。

 

猛暑台風感染拡大等々、今年の夏も試練はまだまだ続きますが、

雨ニモマケズ風ニモマケズ、丈夫ナカラダで乗り越えていきたいです。