先日、AFP通信のニュースで、こちら☟の記事に衝撃を受けた。
2年くらい前に読んだ『わたしたちだけのときは』を思い出す。
先住民族の子どもたちが寄宿学校に入れられ、同化政策によって、言語はおろか、名前まで変えさせられた実際の歴史に基づいて創作された絵本。
先日も、NHKで放送されている『アンという名の少女』に、先住民の女の子カクウェットが寄宿学校で過酷な日々を送っていることが描かれていた。
カクウェットが寄宿学校ですごす場面は、もはやつらくて見ることをやめたくなるほどだった。
とうとう第8話では、寄宿学校を逃げ出して、無事に一族のところへ帰っていたけれど、ドラマは現実よりは希望をもたせてあげることができるから。でも、冒頭の記事が本当だとすると、事実はドラマ以上におぞましかったことになる。報じられている行方不明の先住民の子どもの数も、尋常ではない。
ドラマのなかでも、カクウェットが寄宿学校から逃亡をはかったとわかると、すぐに男たちが猟銃を構えて見つけに行く。これはドラマ上の演出以上のものだろう。The Hate U Giveでも描かれているとおり、そして、NHKの知床の漁師さんのドキュメンタリーで、アメリカ人専門家が、アメリカでは熊がいたらその場で射殺している、と述べたことからもわかるとおり、銃がいとも簡単に人に向けられるとき、そこではもはや人間は人間として認識はされていない。
このドラマが、闇に埋められていた黒い歴史をしっかり描こうとするのは、そうした他者と、カナダの社会が今も向き合っているからなんだろなぁ。
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ところで。きっとこのドラマには賛否あるのでしょう。
私もシーズン1にはアレルギー的拒絶反応が生じたものの、シーズン2から、もはや別物のドラマと思って見始めたら、全然おもしろくってやめられなくなっている。
たとえどんなに現代のテーマが余すところなく(詰め込むねぇ!とうなるくらい)入っていても、Anne Shirleyはそのままキラキラしている。
アンが初めてバッシュと対面する場面では、その肌の美しさに感動し、学校新聞の取材で先住民のカクウェットと友達になる場面では、彼らの生活に感動する。このとき馬を乗りこなすアンの躍動感は、いかにもアン・シャーリーだよねぇ、と思った。
脚本家も監督も、きっとアンの魂をよく心得てるんだなぁ。
新しいものへの好奇心と勇気と、そして想像力は常に新しいアンのなかにも生き生きとしているし、役者さんも実に素晴らしい!またひとつ歴史に残るAnne Shirleyが出てきたなぁ、と思って、毎週観ている。
そうして観ていると、アンも、彼女を支えるマリラとマシューも、評議員に堂々と取引をもちかけるリンド夫人も、黒人のバッシュを共同経営者として迎えるギルバートも、いい子でいることのジレンマにもがくダイアナも、それぞれのキャラクターが、これだけのものを、後の時代に詰め込まれて膨らませられたとしても、その造形に耐え得るキャパシティが、こんなにもあったんだな~、と『赤毛のアン』ファンとして思う。
もちろん、キャラクターだけでなく、あの島とアヴォンリーという町にも。
現代のYA作品が取り扱うあらゆるテーマをここまで詰め込んでも、人物も舞台も死なないことが素晴らしい。原作のその魂も、このドラマの脚本も。
モンゴメリは、最初に『赤毛のアン』がアメリカで映画化されたとき、その出来に大いに不満だったそうだけど、きっと、現代のことを知ったうえでこのドラマを見たら、満足してくれるんじゃないかな。
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The return to the book is also the abandoning of the book.
という一文があるけれど、たぶん、私はこれのために、あまり何度もお気に入りの本を読みたくないと思ってしまう方なんだなぁ。
あのときあの日あそこで、この場面をこんなふうに読んでいた、と覚えているくらい感動した本ほど、その記憶を上書きしたくなくて、大事にしまっておきたくなる。これは昔々、とある出版社の役員面接でも、その役員さんに聞かれて困ったことがあった話題だ。
アンもエミリーもジェーンも、みんな私のそういう場所に鍵をかけてしまってある。
でも、自分でそうしようと思わずとも、ふとしたきっかけで、年月を経て再読する機会がやってきたときに、それはそれは、なつかしい親友に再会したかのように変わらぬ姿に心をつかまれるし、本のなかの風景は、びっくりするほどそのまま頭のなかに残っていて、息を吹きかえす。
そして、今に相応しい新しい視点や新しい疑問もくれる。
もしもこのドラマに若干の不満があるとするなら、景色の植生が、ときどき(これPE島じゃないよね)と思うくらいかな。
次回がたのしみだ~♫
3週間待つのか~(>_<)