よむためにうまれて

上昇気流にのって旋回する沖合いのカモメのように、子どもの本のまわりをぐるぐるしながら、ぷかぷかと日々に浮かぶマナティのような個人的記録も編んでいます。

読む力をのばす方法は

Twitterのトレンドワードに朝から「ごんぎつね」が入っていたので、

へ~、ごんぎつねがどうしたって?

と興味がわいて読んでみました(私はTwitterやってない)。

 

なるほど、国語力の記事で「ごんぎつね」がランクインしてたんですね。

いろいろな意見を目にしましたが、

「昔のお葬式を今の子は知らないんだから仕方がない」とか

「煮沸するというのは衛生観念としてあってもおかしくない」とか

子どもの読みに寄り添う側の意見も結構ありました。

ほかに、

「そもそもこの質問がおかしくないか」という意見も目にしました。

 

いろいろあるとは思うのですが、

まず上から1つ目で言えば、やっぱりそういう問題は今の古典を読むときにあり得るのでしょうね(「常識」がもはや常識でなくなってからは多々。しかも古典じゃなくても)。

歴史的背景を知らないと読みに深みが出ないとか、

作者についてもっと知っておくと、さらに奥深い意味を感じられるとか、

読みを肉づけるために必要な知識は、やはりあると思います。

でも、件の箇所は、ごん狐の視線が捉えているものを説明しているところになり、

言ってみれば、ごんも異邦人(狐)として人間の文化を観察している。

そうすると、昔ながらの葬式のやり方を知らない子どもも、ごんと同じ目線にいることはできると思います。

そして、当時の事情を知らない読者にとってありがたいのは、ごんは利口な狐なのです。

ごんは、ちゃんと煮炊きの情景の直後に、「ああ、葬式だ」とわかるから。

このごんの反応が直後に来ていることで、確かにその前の文章をより印象的にする作用はあります。

そうすると、上の3番目の意見にあった

どうしてここの鍋の「中身」を聞いちゃったんだろ。。。

という気持ちもわかります。

鍋の「中身」は、物語からすると、そこまでたいした意味はない。

というか、「何を」煮ているか、という質問をすごく広めに解釈すれば、具体的な中身を答えるべきなのか、お葬式に集まった人のための食事を煮ていますね、という文化的背景に言及すべきなのか、2つの答えが期待されるのだろうと思います(このときの先生の尋ねたいことを想像すれば)。

当時の文化的背景を尋ねる質問であることを明確にするのであれば、

なんのためにみんなで煮炊きをしているのでしょう?

と問うてもよかったのかもしれません。

そもそも、「中身」自体は分からないから。

 

ただ、この物語において、「お母さんを鍋でぐつぐつ・・・」という想像に飛ぶのはあり得ないですよね、という意見はわかるし、問題はそこだったのだと思う。

千歩譲って仮にもお母さんをぐつぐつ、という事情を仮想したとしても、兵十は、床に臥せっていた母親のためにうなぎを取ってきてやろうとしていたわけで、そういう心情を織り交ぜて編まれた物語のなかに、絶対そんなものは入ってこない。そんな描写が入ってしまったら、そのあとのごん狐の想像力が台無しになるから。

そう考えると、上から2番目の意見は、もはや次元の違うはなしです。

物語とは、そういうものではないのだから。

物語を読む、というのは、新聞やネット上に氾濫している情報を読むのとは違う。

物語は、作者のつくりあげた編み物を読むことなので、

それは当然、恣意的に世界観が構築されているわけで、

そのなかにわざわざ必要な情報が埋め込まれるときは、入れるべき情報だからです。

そうするともう、お葬式を想像してそんなリアルな遺体のはなしなんて、どうひっくり返しても出てこないはずです。

それが問題でしょ、という話なのだと思います。

そういう物語じゃないはずでしょ、というスタートラインが、ズレちゃってないかな、という話なのだと思います。

 

ただ、この質問のこの文章がひっかかる、というのもわかるような気もします。

「何かぐずぐず煮えていました」の「何か」は何?と。なんでそこで「何か」と伏せるの?と、ひっかかってもおかしくはないかもしれません。

特に、上にも書いたとおり、この直後にごんは「葬式だ」とわかるわけだから。

そして、どこかこの「大きな鍋」「何か」「ぐずぐず」というのが、生殺与奪のようなのっぴきならない命のやり取りを予感させる感触を湛えている、ととることもできなくはないように思われる。

たぬきのようには狐は獲って食われるわけではないとしても、いたずらをしていると勘違いされて、ごん狐は殺されてしまうわけですから、この文章と「葬式だ」は、やがて自分も死の側へ行くごん狐に対して、うっすーい糸を裏で張っていると、拡大解釈してもいいような箇所なのかもしれません。

そう考えると、兵十が母親のためにうなぎをとっていた漁で出てくる「はりきり網」という名前も、実に心根を伝えるいい響きをもっています。

 

まあ、そんな深読みをせずとも、

くりかえしますが、ごん狐は賢い狐です。

その葬式の様子を見ただけで、母親は「うなぎが食べたいと言ったにちがいない」だから兵十は網を持ち出してうなぎを取っていたんだ、と巣穴でひとり理解する。

ごんは、非常に子どもの読み手たちに親切なんです。

彼の目線を素直に追っていけば、きちんと筋と、兵十の心情を追えるようになっています。

 

ま、いずれにせよ、国語力は安定的に落ちている。

 

国語力とは、実に、ごん狐のようにのびていくのだと思います。

いっしょうけんめい人間の姿を見つめて、

彼らの話す文章と言葉に聞き耳を立て、

巣穴でとっくりとひとり想像をめぐらし、

自分にできることを考えること。