人は自身のジェンダーを一人で「行って」いるのではない。
たとえそれが想像上の他者でしかないとしても、人は常に、他者とともに、他者のために、「行って」いるのである。
ジュディス・バトラーのジェンダー論で最も重要な部分は、
行為遂行性performativityの方ではなく、
行為を為す、ということに常に「他者」がつきまとうことの方だと思う。
だからバトラーは『ジェンダー・トラブル』を出したあと、ジェンダー論から自己と他者の問題へと移っていったんだと思う。
個人的には、『ジェンダー・トラブル』はUndoing Gender(ジェンダーをほどく)と2巻セットと言った方がいいくらいに思っている。
ジェンダーを行為遂行性だけで語るのは、片手間すぎる。
さらにその先に人間の根本的あり方が潜んでいることに気がついていたバトラーのたゆまぬ思考についていかなければいけないと思う。
Undoing Genderの、特に'Longing for Recognitnion'(承認を乞う)の章を読むべきだと思っている。
行為すること、ふるまうことは、常にそれを見る誰か、それを受けてくれる誰かとともに成立する。
たとえそれが、想像上の他者であっても、私達は常に、他者に絡めとられながら、行動を為している。あるいは一歩先の行動を、意識的にしろ無意識的にしろ、想像上の他者とともに想定している。
Undoing Genderまで含めて読めばわかることだ。
いかにジェンダーという問題が、全体主義的な性質を帯びた問題であるかが。だからこそ、いかにこの問題がせつないかが、よくわかると思う。
性別とは、たとえアセクシャルであっても「ア」を「セクシャル」につなげることによって、常にすでに別の性差に紐づいてしまう。人間であれば誰一人、この問題から無関係でいられないほどに凡ての人間がいやおうなく関係している。
ここまでがわかっていれば、
この問題について、嫌悪感、不快感といった感情的な言葉がいかに無意味な言葉かがよくわかるはずだ。
なぜなら、ジェンダーに絡んで生じる感情すら、繰り返しと慣習によって成立している文化に操られてつくられたものかもしれない、と理性的に気づけるからだ。
きちんとバトラーを学んでいれば、
「カミングアウトして面倒が起こるのはわかりきったことなのに、だったら自分から公表しなければよかったじゃないか」といった言葉が、いかにジェンダー論を理解せずに口走ったものかがよくわかるはずだ。
なぜなら、ジェンダーとはことほどさように、自分の認識している性を受容してくれる他者とともに成立するものだからだ。
自分が自分であるために、他者を必要とせざるを得ない、というこの鬱陶しいまでの構造と、せつないほどの”Longing”が、この問題の核心にあることが理解されるはずだからだ。
その承認を乞わざるを得ない人間の在り方と、
この問題の帯びている全体性が、
あまりにも過酷な現実をつくってしまうことを、
よくよく理解できるはずなのだ。
学校で教えるべきは、客観的なジェンダーマイノリティの理解を促すことだけでは不十分だと思う。
最も伝えなければならないことは、「常に、他者とともに他者のために」成り立たざるを得ない、ということの方である。
そして、それを一人の哲学者がそれまでの理論の不備を説明しつくし、新たな観点を乗せた上で、ジェンダーが自己と他者の成り立ちという人間の根本的在りように深く関わっていることまで追究した、ということを、全国の高等教育機関で伝えるべきだ。
そしてもし、「想像上の他者でしかないとしても」その他者に苦しめられているのであれば、「想像上の他者」が、自分の性を受容してくれる他者であると想定してしまえばいい。
あなたは、そのままでいい。
と言ってくれる誰かが、地球上の人類のなかでいないわけがないのだから。
あるいは、最も身近な他者である自分がそう言うこともできる。
あなたは、そのままでいい、と。
ジェンダーは、極めて冷静な哲学の問題だ。
だから、この問題について口にするなら、せいぜい気をつけるべきなんだ。
自分の勉強不足を晒さないように。
自分の愚かさを露呈しないように。