季節がひと月は遅延してやってくるようになった昨今、ようやく12月らしい木枯らしと沁みるような寒さになってきたからか、今年の疲れがいっきに吹き出ている。ここ数日、からだと足が重い。
そんななか、仕事帰りに東京都美術館でやっているゴッホ展に行ってきた。
——拝啓、星になった兄へ。
実にいいコピーです。
行かずにはいられないコピーです。
星になった画家に思いを馳せずにはいられない、うずうずするコピーです。
思わず、寒空の星を見あげたくなるコピーです。
山田五郎さんのYouTubeチャンネルが好きで、時々見ていたのですが、
過去のゴッホの回を見ていたとき、
・・・・ん??(・_・)
と思ったのです。
彼によく似ている、と。
彼とは、己を
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明
だといった彼です。
まるでふたごの星のようによく似た生涯に驚く。
なにより、その魂の光り方がそっくりなことに驚く。
オランダ(1853-1890)と日本(1896-1933)、若き日々に伝道を志し、坑夫や農民とともに働いてみながら結局、数々の挫折を経た果てに、描くことと書くことにその光の注入先を見いだし、鋭く比類ない閃光を放ってぴったり37年でその生涯を閉じたふたつの魂。
私は賢治の歩みの概観は前から知っていたけれど、恥ずかしながらゴッホの生涯を詳しくは知らなかったこともあって、ちょっとした衝撃を受けた。
どうしてこんなに似ているの? と。
それから一週間と経たず、ある日、ブックトラックにあった一冊の本のタイトルが目につく。
『ふたりのゴッホ ゴッホと賢治37年の心の軌跡』 伊勢英子(2005、新潮社)
数々の絵本を手掛けられている伊勢英子さんによるゴッホと賢治の生涯を追った20年前の本だった。
偶然というのは本当に不思議。不思議だからステキで最強。
20年前の本を、ちょうどゴッホと賢治のことを考えていた矢先に発見できるのだから。
特に、192頁のアルベール・オーリエの評論が、まるで『春と修羅』の評論のように響くあたりの対比は、はめこんだパズルがカチっと音をたてるのが聴こえてくるようだ。
評論や、誰かを語る言葉がむなしいのは、目の前にある芸術に追いつかないどころか、その芸術家がひとふでひとふでをこの世界のなかに穿っていく瞬間にどんなに言葉を尽くしても歯が立たないからだ。だけど何よりたちが悪いのは、それがどのようなものにしろ、たとえ讃辞であったとしても、活字になってしまうと暴力を隠しきれないことだ。
ゴッホが「絵を描くことは気を晴らすが、描いた絵についていわれるのをきくと、彼が思いも及ばぬ苦痛をぼくは感じる」といったのは正しい。
ゴッホがどれほどこころを剥き出しにして生きていたかがよくわかる。
活字になった言葉は、彼のように生きる人たちにとって、必ず切り傷をつくらずにはおかない。
この本では、多分に伊勢さんの熱量が推量になっている部分もあるから、ノンフィクションというより評論というより、伊勢さんのひとつの心の旅路をたどるものとして読んだ方がよいのかもしれないけど、それだけの熱量に囚われるのも、すごくよくわかるなぁ、と思う。
賢治に興味のある方も、ゴッホに興味のある方も、最終章のコラージュに瞠目すると思う。
どうしてこんなに似ているの? と。どうしてこんな奇跡をふたつも、私たちは与えられてあるの? と。
ゴッホ展の終盤、彼の最期を説明した5分程度の映像が流れるスペースで、涙を流されている方もいました。
その気持ちも、すごくよくわかるなぁ、と思いました。
賢治がそうであるように、ゴッホも、もはやある角度から見ると、画家以上の何者かであり、アイコンになってしまった人物だろう。自分の作品と同じくらい、生きた軌跡が芸術になってしまった人物だろう。
だから、その映像のなかで結局「自殺説」をとっていたことに、私は納得がいかなかった。
(ご興味ある方はぜひ、山田五郎さんが紹介されているスティーブン・ネイフとグレゴリー・ホワイトスミスによる『ファン・ゴッホの生涯』の他殺説の考察をご覧になってください。)
「伝道」を経たあとで絵を決意した人間の結末が自殺なんて理解できない。棟方志功にも伝播した精神の物語の結末が、自殺だなんてとても納得できない。まして私には賢治と重なりあって見えてしまっているので、圧倒的な重みで他殺説に天秤が傾くのを感じてしまう。
何より、こんな〈線〉を描いていた人間が、自殺を選ぶとは思えない。
あの〈線〉こそ ”wonder" が詰まっていると思う。
やっぱり〈線〉は声なのだなぁ、と思う。ゴッホの作品のどの線からも、彼の魂のかたちを眼が味わっているのがよくわかる。
手紙などに描かれたさりげないものでも、靴や、家や、人々の後ろ姿、顔に、彼がたくさんの〈人間〉を見いだしていたのがよくわかる。
「ゴッホの眼は光源となって中央の「麦畑」(=刈り取られる存在)と「教会」(=神)を照らす」(伊勢 2005, 259)。
賢治のそれと同じように、彼の作品の比類のなさは、線とその声にある種の確信があるからだろう。
自分に観えている世界への信頼と確信があるからだろう。
人はそれを「狂気」だとか「霊感」だとか常ならぬものとして理解しようとするんだけど、彼らにとっては究極的に透明な明晰性によって観ていたものなんだと思う。
もちろんそれは、そばにいる常人からすれば鬱陶しいほどの熱波なんだけれども。
・・・・👞👞
ところで。
たぶん、ゴッホが「絵本」というメディアがあることを知っていたら、正確には「今日のようなメディアとしての絵本」があることを知ったら、彼もまた嬉々として、子どもの本に自分の道を見いだしていたかもしれない、と思う。
そして、あぁ、そういうことか、と。絵本は子どものためのものであることと同じくらい、アーティストたちのための媒体にもなったのだな、と思った。
ゴッホの素描の線を見ながら、私はバンサンを思い出してしまった。
ひょっとするとガブリエル・バンサンがデッサンで本を出し始めたことの底には、ゴッホの線の影響があっただろうか、などと妄想を巡らせるのも、とても楽しい。
「人は絵を描くことで画家になるのだ」というのはたぶん、線のなかにいのちを入れるその瞬間において画家なんだ、ということなんだろう。
being であり becoming な進行形でしか画家であれないことを指しているんだろう。
線はその証なのだと思う。