最近いろいろなことがあって、それでも新年度はやってきてしまって、
立ち止りたい、歩きたくない、と思う一方で、
どんどん流されるしかないような気がして、
昨日の帰り道、お腹はぺこぺこだし、
とっても気分は落ち込んでいるし、
もう、この気持ちをどうしたって前向きにできない、
と思いながら歩いていたら、
横断歩道を一緒に渡っていた女の子の背中が目に入った。
かわいい柄のスカートをふわふわと揺らしながら、
踊るように、ステップを踏むように、家路を跳んでいく。
道の白線の上を平均台のように歩いていたと思ったら、
段差の左右の違いを楽しむようにぴょこぴょこしてみたり、
そんなふうにしてると、ちょっと躓いてしまって、
横を行く同い年くらいの剣道少年にそれを見られたんだけど、
彼女はやっぱりまた踊るように歩き始めて、
とにかく歩くことが、
跳んだり跳ねたりが楽しくって仕方がないのが、
後ろ姿から伝わってきた。
その後ろ姿を見ながら、
ああ、自分も小さい頃、お気に入りの服を着て歩くのが好きだったし、学校帰りや幼稚園までの道に、大きな木の根の上に足をはわせて、わざわざ一周したりしながら歩いていた、と思い出した。
本来なら、人はこんなふうに、飛び跳ねるように歩くことができていた、と、
ちょっとその後ろ姿に思い出させてもらった。
後ろ姿というのは、不思議。
後ろ姿というのは、ときどきとても愛おしい。
特に、子どもの背中は時にとてもまぶしい。
それはもしかすると、もう自分はそこにたどり着けない、という距離を感じさせるからかもしれないけど、
あるいは、子どもの方がよっぽど歩き方を知っている、ということを、逆に教わるからかもしれない。
だから、もうたどり着けない、なんていうことは、たぶんないんだと思う。
ジミー・リャオ作(天野健太郎訳)『おなじ月をみて』
主人公ハンハンは、窓から外を眺めながら待っている。
ライオンが来て、ゾウが来て、ツルが来て。
ハンハンはていねいにそれぞれが負った傷を治してあげる。
足の治ったライオンと夜の散歩をし、
ゾウといっしょに、じょじょに満ちていく月を眺める。
そしてまた、ハンハンは待っている。
外に一台の車が止まる。
ハンハンのずっと待っていた人が、帰ってくる。
もしもこの絵本を手にとる機会があるときは、
車が止まった場面での、
ふりかえったハンハンの表情に込められた想いに、
胸をふさがれてほしい。
待っていた時間のすべてを、こんな表情で語れるジミー・リャオは、やっぱりすごい。
いろんな人が、いろんな思いで眺めているだろう同じ満月の夜空を、
今夜も戦闘機が飛んでいく。
そして、投下された爆弾が落ちていく。
きっとお父さんと別れたたくさんのハンハンが、今日も窓辺で待っているはず。
こちらに背中を向けて、待っているはず。
同じ月を見るその背中が、月と同じくらいのまぶしさで光る。