よむためにうまれて

上昇気流にのって旋回する沖合いのカモメのように、子どもの本のまわりをぐるぐるしながら、ぷかぷかと日々に浮かぶマナティのような個人的記録も編んでいます。

デッキブラシを再認識したはなし

昨晩、また『魔女の宅急便』を見てしまった。

今回はテレビをつけっぱなしにしていて、久しぶりに頭から観ることができた。

キキが旅立ちを決めてあわただしく準備し始めるシーンでのジジの言葉、

どうなることやら心配だね。決めたらすぐの人だから」

は、確か原作と全く同じで、キキの性格とジジの役割、ふたりの関係性なんかがこの台詞ひとつでビシっと見えるからそのまま採用されたのかな、なんて思った。

そんな感じで久しぶりに観た冒頭の印象が強く残ったせいか、

今回は、クライマックスのキキがデッキブラシを借りるシーンで、

なるほど~と思う発見があった。

 

旅立つときに、キキはせっかくだから新しく作ったほうきで行きたい、と主張するんだけど、お母さんは使いこんだほうきを持っていけ、という。

このやりとりは原作にもあって、お母さんのほうきなら「ようく使いこんで」あるし、飛び方も(ほうき)が心得ているからこっちにしなさいと助言される。

飛ぶ、という魔法には使い込まれた古さがほうきに染みついていることが重要である、というポイントがここで暗に提示される。

だけど、魔法が弱くなって飛べなくなったキキは必死で飛ぶ練習をして、落ちた拍子にほうきを折ってしまう。

夜、ひとりで新しいほうきを作り直しながら泣いているキキの姿は、挫折や苦境に陥ったことがある人には、その袋小路感がよくわかって一緒に泣きたくなるような場面だ。

ところが、最後にトンボを助けようとすることで、臨時のデッキブラシで「飛ぶ」ことを思い出す。

結局このデッキブラシを使い続けることがエンディングでわかるんだけど、

私は小さい頃、どこか変なところに几帳面だったのか、

「どうして最後はデッキブラシになっちゃうの?! なんで魔女らしいまま「ほうき」でがんばるようなストーリーじゃないの?!」

と、「持ち物」が変わってしまうことに寂しさを感じた。

だけど、昨日観ていてこのデッキブラシに心から納得したし、プロットの整合性に感嘆した。

意図したかしていないかはわからないけど、デッキブラシで最後に飛び立ち、そしてそれをそのまま使い続けるようになるラストには、キキがあの街を自分の足場としたことと、あの街にキキが受け入れられたことの両方が表われていると思う。

飛ぶ条件として、ほうきは「ようく使いこんで」あるものでなければならないなら、

きっとキキは「大丈夫かい?」と声をかけたおじさんの手にしたデッキブラシが、

素材の面でも使い込まれている古さの面でも飛ぶ条件に合っているかもしれない、とブラシを見つめながら考えたのかもしれない。

そして使いこまれたデッキブラシが意味するところは、意外と重要だろうと思う。

なぜならきっと、おじさんのブラシは、あの街をたくさん掃除してきたものだから。

あの街の地面をよく知っていて、あの街の汚れ方を知っていて、そしてそれをきれいにしてきたブラシだからだ。

そのブラシで飛べることは、キキにとって、あの街で生きていく自分の力を再び得ることを意味するのだろうと思う。

お母さんの使いこんだほうきではなく、

今度はあの街を掃除してきたブラシの云わば「経験値」の力を借りて、

飛べるようになることが重要なんだと思う。

そして、おじさんが手にしているブラシが使いこんだものだろうことを、おじさんから推し量ることができる、というのも表現として優れている証拠だろうと思う。

しかも、ジブリ作品のなかでの掃除の場面の重要性を考えれば、なおさら本来の掃除道具として使われてきたブラシが飛ぶための道具だった魔女のほうきに取って代わることは興味深い。

「落ち込むこともあるけれど」この街で生きていく、という覚悟と、

この街に受け入れられたということが、

デッキブラシという小道具1本にしっかりと表現としてのっているのが素晴らしい。