よむためにうまれて

上昇気流にのって旋回する沖合いのカモメのように、子どもの本のまわりをぐるぐるしながら、ぷかぷかと日々に浮かぶマナティのような個人的記録も編んでいます。

『君の名は。』と『あやとりの記』と往還道②

こんにちは。トウキョウマナティです。

前回の続きからです。

 

で、『君の名は。』を観終わって、もう一度『あやとりの記』をぱらぱら捲っていて、その思いを強くしました。

石牟礼道子さんが描き出してくれたものは、

この列島すべての根底にあって、

日本人全体の“ファンタジー”を今も形成しているんじゃないか、と思われました。 

 

   “ものたちは、宇宙の呼吸に、あの低められた静かな呼吸にうながされて語り、

   あるいは唄っているように思えました。

    それはまったく、生命たちの賑いとでもいうべき夕べでした。

   この黄昏から夜に入ってゆくあいだというものは、

   大地の深いところで演奏されている生命のシンフォニーが、

   降る雪に呼吸を合わせて、静かに地表にせり上がってくる、

   そういう時間だったのです。

   ものたちは観客でもあり、

   大地や潮の生命を持っているシンフォニーの一員でもあったのです。

   ......

   往還道とはそういう道なのでした。 

   この道は、じつにいろいろなものたちでできあがっていて、

   もう草花の賑いだけでも、その香りで、

   蝶たちを呼び寄せていました。

   そのようなあいだを通って、

   蝸牛は蝸牛の、蟻は蟻の、おけらはおけらの往還道を持っている、というぐあいです。”

 

夕暮れどきの、小さな生き物のそわそわした気配が、

とてもやわらかく、いとおしく描かれています。

この映画をたくさんの人が観にいったのは、

多くの人の中にいる“一員”が、この映画の「たそがれどき」に惹きつけられて参加した、

一種の祭りだったと想像してみるのも、おもしろいかもしれません。

君の名は。』の「たそがれどき」も、『あやとりの記』の往還道に連なるものだ、

と安易に言いたいわけではありませんが、

でも、昔は大掛かりな装置も壮大なスケールも必要なくて、

人間の生活するすぐそばに、そんな境界がたくさんあったのでしょう。

 

映画の中で山奥の田舎と、都心の大都会が交錯していくのが、面白いな、と思いました。

きっと、双方の場所には双方の時間と現実/「現実」があり、

その現実が故に「現実」を捉えられない空間がある。

それが違う時空間へ向かう意識が働いたときに、

逆説的に目の前の“夢”が崩れて、「現実」がたち現れる。 

.... うゐのおくやまけふこえて あさきゆめみしゑひもせす

 です。ね。

(・・・・う~ん、2018年のお正月に、いろは歌留多をして遊んだ子どもって、一体今の日本にどれくらいいるのかしら。)

ともあれ、面白かったです。

石牟礼道子さんの本も、もう一度たくさんの人たちに読まれてほしいな、

と願った正月でありました。

   “みっちんは胸がずくずくするのをおぼえました。

   川という不思議なものは、いったいどういうふうにはじまっているのか、

   とても柔らかい、いのちのはじまるところへ、

   連れてゆかれそうな気がしたからです。”