こんにちは。トウキョウマナティです。
前回の続きからです。
で、『君の名は。』を観終わって、もう一度『あやとりの記』をぱらぱら捲っていて、その思いを強くしました。
石牟礼道子さんが描き出してくれたものは、
この列島すべての根底にあって、
日本人全体の“ファンタジー”を今も形成しているんじゃないか、と思われました。
“ものたちは、宇宙の呼吸に、あの低められた静かな呼吸にうながされて語り、
あるいは唄っているように思えました。
それはまったく、生命たちの賑いとでもいうべき夕べでした。
この黄昏から夜に入ってゆくあいだというものは、
大地の深いところで演奏されている生命のシンフォニーが、
降る雪に呼吸を合わせて、静かに地表にせり上がってくる、
そういう時間だったのです。
ものたちは観客でもあり、
大地や潮の生命を持っているシンフォニーの一員でもあったのです。
......
往還道とはそういう道なのでした。
この道は、じつにいろいろなものたちでできあがっていて、
もう草花の賑いだけでも、その香りで、
蝶たちを呼び寄せていました。
そのようなあいだを通って、
蝸牛は蝸牛の、蟻は蟻の、おけらはおけらの往還道を持っている、というぐあいです。”
夕暮れどきの、小さな生き物のそわそわした気配が、
とてもやわらかく、いとおしく描かれています。
この映画をたくさんの人が観にいったのは、
多くの人の中にいる“一員”が、この映画の「たそがれどき」に惹きつけられて参加した、
一種の祭りだったと想像してみるのも、おもしろいかもしれません。
『君の名は。』の「たそがれどき」も、『あやとりの記』の往還道に連なるものだ、
と安易に言いたいわけではありませんが、
でも、昔は大掛かりな装置も壮大なスケールも必要なくて、
人間の生活するすぐそばに、そんな境界がたくさんあったのでしょう。
映画の中で山奥の田舎と、都心の大都会が交錯していくのが、面白いな、と思いました。
きっと、双方の場所には双方の時間と現実/「現実」があり、
その現実が故に「現実」を捉えられない空間がある。
それが違う時空間へ向かう意識が働いたときに、
逆説的に目の前の“夢”が崩れて、「現実」がたち現れる。
.... うゐのおくやまけふこえて あさきゆめみしゑひもせす
です。ね。
(・・・・う~ん、2018年のお正月に、いろは歌留多をして遊んだ子どもって、一体今の日本にどれくらいいるのかしら。)
ともあれ、面白かったです。
石牟礼道子さんの本も、もう一度たくさんの人たちに読まれてほしいな、
と願った正月でありました。
“みっちんは胸がずくずくするのをおぼえました。
川という不思議なものは、いったいどういうふうにはじまっているのか、
とても柔らかい、いのちのはじまるところへ、
連れてゆかれそうな気がしたからです。”