よむためにうまれて

上昇気流にのって旋回する沖合いのカモメのように、子どもの本のまわりをぐるぐるしながら、ぷかぷかと日々に浮かぶマナティのような個人的記録も編んでいます。

真っ赤なほっぺを抱く

だいぶ久しぶりのログとなります・・・。

きっと今年はもう、記事を書いたとして1桁台なのでは・・・。

きっとあっという間に年末なんだろうなぁ。

一刻一刻を無駄にしないで遊ぶ子どもがうらやましいです。

 

今日は、いい本を読んだので久々に更新です。

いや、他にもいい本は去年もあったのだけど、ブログを書いている余裕が全くありませんでした。その本も、おいおい記事できれば。。。

 

李娟(Li Juan)の『アルタイの片隅で』。

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魯迅文学賞を受賞した作者が二十歳の頃に書いた随筆をまとめた散文集ということで、

前知識ゼロで読んだけれど、とてもとてもよかった。

風景や時間の切り取り方が、須賀敦子のようなしとやかさを感じさせる部分もありつつ、さまざまな土地を楽しみながら洋裁店や雑貨屋を営む愉快な母や祖母と織りなす日常がユーモラスでもある。

モンゴルや中央アジアに行ったことのある人なら、

ここに漂っている空気、砂ぼこり、音の無さ、草花の可憐さ、犬の狂暴さ、空の高さと山の近さ、痛いほどの極寒なんかが、よくわかるだろうと思う。

とりわけ、他の民族の子どもたちや、同じ年頃の少女や少年、家畜に対するまなざしの距離感が絶妙だ。

作者自身も新彊生まれだが、本籍は四川省だ。その彼女が洋裁店や雑貨店を通して、遊牧民たちと交流していく。

草原という電気もガスもない土地で生きる彼らにとっての、「物を買う」ということの意義がよく伝わってくる。

それは、作者が同じ遊牧民ではないからこそ、伝わるものなんだろう。

 

仮にこれがアメリカで出版されたのなら、今なら#OwnVoicesにひっかかって、大炎上書籍と化すだろう。

北京語を話す漢民族の作者が、たとえ自分のことを文章に綴っていたとしても、他者の文化を肥やしにしていると批判されるかもしれない。

それを、こちらも読みながら意識しないではなかった。

やっぱ、そうなる立ち位置にある本だよね、と。

やっぱ、#OwnVoicesから考えるとどうなんだろね、と。

それでも、最後の「ピンクのバス」まで読んで、いや、これはこれでいいと思う、と思ってしまった。

人間どうしには、こういう場所が必要だ、と。

 

「ピンクのバス」は、単なる乗り合いバスに乗る話だ。

行った先の話があるわけでも、なぜ乗り合いバスに乗らなきゃいけないかがメインの話でもない。

ただ、バスに乗る、という時空間の話だ。

ここを切り取りたくなる意味が、東アジアからアルタイ山脈エリアを旅した人ならわかるんじゃないだろうか。

きっとピンクのバスは、韓国か日本かどこかから払い下げられ、大量にアジアの周辺国へと流れた中古のバンだろう。

そこにぎゅうぎゅう詰めになって町へ行く人たち。

その一コマだけの話だ。

作者の冷たい手を両隣から握ってくれる老夫婦。

知り合いではないのに、お互いの面倒をみあう子どもたち。

子どもを一人で乗せるのが心配で心配で同じ注意を何度も運転手にいう父親。

真っ赤なほっぺをした2歳くらいの子どもと向かい合って座った作者。

真っ赤なほっぺをした子どもは、何を聞いても何も答えないが、

手が冷たくないかと思って握ろうと手を出した作者に、体を預けてくる。

この子の体は小さくて柔らかく、懐に抱きとめると小さい頭をちょっとかしげ、直ぐに私の腕の中で眠ってしまった。途中私は、できるだけ体を動かさないようにした。腕の中の小さな子の静かで孤独な夢を邪魔したくなかった。

この散文集をこの章で締めくくる絶妙さに、脱帽する。

訳者の方があとがきで、34篇を11篇に間引いたと断っているが、

もともとこれが最終章だったのかどうか知りたいところだ。

 

この小さな子の抱きしめ方は、

作者の、遊牧民との風景の分け合い方そのものである。

 

小さな夢を邪魔しないように、そっと抱きしめる。

 

それ以外、ほかに伝えようがあるだろうか。