よむためにうまれて

上昇気流にのって旋回する沖合いのカモメのように、子どもの本のまわりをぐるぐるしながら、ぷかぷかと日々に浮かぶマナティのような個人的記録も編んでいます。

たがいの影に:『テイルズ・フロム・ジ・インナー・シティ』(by ショーン・タン)

Where can we live if not in each other's shadow?

 

 ーTales From The Inner City by Shaun Tan 

 

だいぶ久しぶりの更新。

今月、イギリスのケイト・グリーナウェイ賞カーネギー賞が発表されましたが、ケイト・グリーナウェイ賞を、あのショーン・タンが受賞したのですね。

(今ですか?)という気持ちも少しばかり起こりました。ショーン・タンといえばすでに『アライバル』があるし、今回に限らず評価がもっと早い段階でなされていていい印象があるからです。ガーディアン紙の記事で、初めてのアフリカ・アジア系からの受賞者、と報じていましたが、・・・なんだかなぁ、という気もしてきます。

もちろん、時期的に、今、非常にそうしたトピックが世界的に目に入りやすくなっていることはよく理解できます。『ザ・ヘイト・ユー・ギヴ』(by Angie Thomas)で最後にぼろぼろと涙が出てきた瞬間は、心のなかに新鮮に保たれています(人生の時間を、絶妙な温度管理で保存が効く冷蔵室が、心のどこかにあって、この瞬間は”死ぬ前に思い出したいリスト”に入りますね、とカウントされた刹那を、しっかり瞬間冷凍してくれるようになっている気がします)。でも、たぶん、そういうところにショーン・タンの今回受賞した作品の”ポイント”は全然ないわけで、ショーン・タンが何系であるかとか、そういうことを特筆することは、彼と彼の今回の作品の価値とは関係ない次元にある、と思うのは私だけなのでしょうか。受賞者が白人ばかりに偏っていて多様性を反映していないのであれば、それは反映できるように操作をすることでどうにかする問題ではなく、やはり社会の側から変わって初めて意味を成すのではないか。などと思って、しばし記事を眺めてしまいました。

 

それはさておき、今回の受賞作を、手元に持って帰ってきていました!

 

Tales From The Inner City by Shaun Tan

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もはや画集くらいの重さの本で、厚みも2.5cmあります。イギリスから買って帰ってきた本の中で、恐らく2番目に重かったものです(1番は、キュー・ガーデンで買った植物画集です)。

買ったときのこともよく覚えています。

クラスメートと図書館で勉強していたら、火災報知器が鳴りだして、図書館の外に一度出されたのです。"どうせ誤報っしょ?"という空気を醸し出して図書館の周りで座り込んだり談笑している学生たちに、私たちもしばらく混ざっていましたが、思いのほか装置の解除が長引き、向かいの学食の入った建物にある本屋へ行くことにしました。

そこで子どもの本を物色していていたら、クラスメートが「これ!ショーン・タンの最新作!」と教えてくれたのです。私はそのとき、課題で「動物」をテーマにしていて、動物動物…とうるさかったのです。ちなみに、教えてくれた友人は「メタフィクション」の絵本に夢中になっていました。(懐かしい。それぞれが大好きなテーマを見つけて取り組んでいた、なんて幸せで濃密な時間・・・(遠い目))

手に取ってすぐに、明らかにこれは他に買ったペーパーバック本の20冊分かそれ以上に相当する重量だとわかりましたが、それでもパラパラとめくって、私はあっさりと「衝動買い」しました。

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人工物の立ち並ぶ人間の世界に、動物が入り込んでいる不思議な絵。

ショーン・タンは舞台を日本に選んだのだろうか?と思うような絵が多かったです。

建設途中の高架のような、そそり立つコンクリートの塊の上にたたずむ馬たち。道路で睦まじく寄り添うカタツムリ。止まってしまった車たち(という谷川俊太郎の詩がありました)を眺めるサイ。何もかもが真っ白な病室に突如現れる真っ白なフクロウ。道路を挟んで背を向け合う人間とイヌ。国際空港の冷たい床の上で、獲物を捕らえてこちらを見つめるワシ。地表を電光が眩く覆う夜景の上を跳ねるシャチ。荒波の中を、額の上に抱き合う母子を乗せて泳いでいくネコ。

めくって瞬時に「これは買いだ」と思いました。それは、なんだかちょっと、鳥肌の立つような瞬間でした。

一瞥して、児童文学における「動物」というテーマの新たな切り口を提示したポストヒューマニズムにつながる本であることがわかりました。しかも、今までのどの本よりも強力に直接的に。

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この本は、明確なプロットのあるストーリーの形式はとっておらず、合計25の動物(人間を含む)に関する散文や詩文が付されています。読みたければ、どの動物から始めてもいいと思います。ネコ派の人はネコから、イヌ派の人はイヌからでもいいと思います。目次もそれを表しているのか、バラバラに25の動物のシルエットが並んでいて、それはページ順にはなっていません。

各文章は、絵と同じような抽象的なイメージをわきあがらせますが、それらすべてが総合されて、人間と動物の脈々とした物語になっているような印象を抱きます。

 

"クロコダイルたちは、87階に住んでいる。"

"チョウは昼飯時にやってきた。"

"かつてぼくらは、他人どうしだった"

"そのサイは、またしても車道にいた。"

"「ヒツジを尊敬しなさい」と先生は言った。"

"ある午後、理事会のメンバーが全員カエルになった。"

 

子どもの本は、たくさんの擬人化された動物たちを世に産みだしてきましたが、それらのほとんどは、人間の都合のよいかたちにおさまっている動物であったり、あるいは単純に、人間を代行していたりするものです。

この本の中の動物は、人間の世界へ侵入してきた動物たちですが、『おちゃのじかんにきたとら』のように、ニコニコとお茶を所望するわけではありません。病院で自分の番を待つ間、現れた白いフクロウは、その黄色い瞳でじっと私たちを見つめます。

アパートの裏の部屋には、沈みゆくブタがいて、少しずつ、少しずつ、―"or rather, slice by slice" ― むしろ、ひと切れひと切れ、その姿を消していきます。だから、時計の針が12時を指すと、「僕ら」はブタを外へと連れ出す。 

 

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最後の章の「人間」の書き出しが、私は好きです。

We tell each other the same story, over and over again, just changing details here and there.

(僕らはたがいに、同じ話をする。何度も何度も繰り返し、そこここを変えては。)

とても気に入ってしまって、課題の中にも引用しました。この「人間」の章の文章がまた秀逸で、最後の見開きいっぱいに現れる夕焼けとともに、胸にせまります。

本を閉じると、裏表紙には、ネコの章からの1文が付されています。

 

"Where can we live if not in each other's shadow?"

 

先に、「児童文学における「動物」」とは書きましたが、もうこの作品はたぶん、「子どもの本」という範疇を大幅に超えた本です。

トールキン指輪物語が、ロンドンの本屋さんで、子どもの本のコーナーに置かれていなかったように、この本も、居場所を子どもの本以外のところに見出すかもしれません。

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ところで。

週末、このショーン・タンの受賞のニュースのことを何となく頭の片隅においたまま、用事があって品川の港南口の立体歩道を歩いていたら、眼下の交差点を曲がったトラックの荷台に、ブタがたくさん乗っていたのが、目に入って、頭が一瞬くらくらしました。

この本のことを考えすぎていて、よからぬ幻覚でも見てしまったのだろうか、とものすごく焦りましたが、確かに荷台に満員状態で乗っていたブタの1頭の耳が揺れたのを見たように思ったし、何よりも、足を止めてしまった私のように、交差点の横に立っていた人も、しばしそのトラックを見送っていて、どうやら現実のようだ、とわかりました。

ビルばかりが立ち並ぶ無機質な港南口の交差点を曲がっていくブタたちの非現実感に反比例するように、部屋の中で静かに沈みこんでいくブタが、鮮やかに頭を占めました。

 

この本はつまり、そんな具合に、物凄い本です。
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