よむためにうまれて

子どもの本のことを中心に、ひまができたときにのんびりと書いています。

光の速度で去っていくゴールデンウィークに手をふりながら

ゴールデンウィークが終わっていきますね。

長めの休みがあるときは、全然普段読まないようなジャンルの本を純粋な楽しみのためだけに読むようにしています。

その方が、「今、わたしお休みとしての読書時間を楽しんでる」と明確に自分に味わわせてあげられるからです(笑)。

たいていは、星とか星座とかそれにまつわる本を手にとってしまいます。

 

今年のゴールデンウィークのお伴は、『天体観測に魅せられた人たち』。

著者のエミリー・レヴェックは、MITを出て、天文学の名門ハワイ大学で博士号を取得し、ソーン・ジトコフ天体の存在を世界で初めて証明した気鋭の天文学者とのこと。

 

天文学者の天体観測は、実はかなりスリリングでタフな作業で、その僻地(標高4000メートルとか、成層圏とか)への観測の旅は冒険に溢れている。そんな逸話が満載の1冊。

著者のアメリカ人らしいユーモアもそれこそ星のごとく随所できらきらと輝いて、とても面白く読み進められる。

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一晩稼働させるのに約5百万円を要する世界最大級のすばる望遠鏡の誤作動に、明るい声で「再起動してみました?」と返す日本人オペレーター。

ネットの接続が悪くてコンセントを抜いて入れ直すのとはわけが違う億単位のお金で建造された精密機器を前に、当時24歳だった著者は「「すばるを破壊した学生」として後世に名を残したくない」と思う。

(ちなみにそのように天文学者が望遠鏡を壊した事例はけっこうあるらしい。)

弱冠24歳にして、世界最大級の望遠鏡を使用する許可がおりる研究者ってどんなだろう、とそのことのスケールの大きさにまず、度肝を抜かされる。

世界には天文学者はたった5万人しかいないらしいけれど、それこそ、宇宙飛行士になるのと同じくらい、ずば抜けた頭の良さと体力が必要とされる学問領域だということに驚かされる。

研究対象が宇宙である、てこういうことなのね。

観測相手が宇宙である、てつまり、地球上を北半球から南半球まで縦横無尽に行き来して、時には成層圏まで飛び出して自分の追い求めるものを捕えようとする、てことなのね。

星々を相手にする、てことは、地球上の誰よりも、星のために右往左往する人たちである、と著者も書いています。

 

確かに星や宇宙のはなしは好きなのだけど、私はもう、物理なんて中学で止まっている人間なので、正直、ところどころ…(´・ω・)?アノウ、センセイ、モウイミガワカリマセンとなる箇所が無い、などと言うことはできません。

これならレヴィナスを読む方がまだ、どこの岩をつかめばこの急斜面を登り切れるか、頼りにする目印を見つけられているかもしれない。

それに引き換え、どこをつかんで読み進めればいいのだ、というくらいにツルッツルの斜面をすべり落ちるようについていけない部分が時々出てきたりする。

・・・いえ、つるっつるなのはつまり、私の脳みそです。

 

天文台日記』という本も読んだことがあるけれど(これは2年前の正月休みに読んだ)、天体観測というのは何しろ夜通し行うために、空腹と睡魔と闘う仕事でもあるらしい。

そのための「夜のランチ」やお菓子、お気に入りの音楽のプレイリストを用意しておく感覚は、天体観測を仕事にしていなくても、徹夜で何かを仕上げるわくわく感を味わったことがある人ならわかるかもしれない。

ことが動くのはどうやら「午前二時」付近のようだ。

チリのラスカンパナス天文台で、午前二時付近に休憩をとり、地球上でただ一人、超新星を肉眼で見る幸運にありつく望遠鏡オペレーター。

午前二時、リモート観測中にネット回線が途切れて、自転車に飛び乗って研究室へ向かう著者。

そしてさらにおかしなことが起こるのは、疲労と睡魔が極限に達する「午前三時」。

彼女はこう書く。

どれだけロマンに浸っていようと、午前三時はやってくる。

午前三時に自分で自分をトイレに閉じ込めてしまう研究者。

宇宙の美しさをとるか、枕のやわらかさをとるかの岐路に立たされる多くの研究者たちを苛む、それが午前三時。

きっと、「午前三時」というのは、どんな人の人生にもやってくる何かなのでしょう。

 

さて、そんなさまざまなエピソードを面白く思いつつも、太陽系における地球の稀有な輝きも、いとしくてたまらない思いにさせられた。

光害の少ない砂漠の中や、山の上に立てられた天文台で、天文学者たちが観測中に遭遇するのはコブラやサソリやタランチュラだ。

電波望遠鏡に降り積もる雪、せっかくの観測日にドームを開けられないほどの強風、ネズミの尿と湿気で発生したバクテリアによって重力波の観測に必要な完全な真空状態が壊される。

それはまるで、

天文学者が宇宙を見つめれば見つめるほど、

今ここにいる私たちの星が、

この地球がどんな星であるかを逆に伝えているものでもあるようだ。

電子や光子がものすごい速さで飛び交い、衝突と爆発と再生を繰り返す宇宙も確かに測り知れない魅力があるのだけれど、この星にも、それに負けず劣らず無数の命が溢れかえっている。

湿度と水で私たちを包みこみ、気象は地球の呼吸のようにめまぐるしく変わり、どんなに前々から計画して許可と資金を得てやっと確保した観測日の夜も、無駄なものにしてしまったりする。

それでも、この星で、この大地から観測する人間って宇宙と同じくらい凄いし素敵だ、と思ってしまった。

このちっぽけな地球上のちっぽけな生き物のなかには、ちっぽけで目には見えないが消せない炎がある。

それが私たちを外へ、上へと宇宙に向けて駆りたてる。

 

本の最後は、桁違いの規模のデータ容量を誇る最新鋭のヴェラ・ルービン望遠鏡の登場で終わる。

観測技術が進化することは、もしかすると、天文学者が天体観測をしながら感じていた、地球の上で宇宙と向き合っているんだな、という壮大なスケールの実感が薄れていくことなのではないか、と、私は何となく、個人的にそう理解しました。

そこではじめて、どうして著者がこの本を書きたかったか、ただ面白い逸話を集めたかっただけではなく、それらを今こそ本にしておきたかったことが理解できる。

そしてちょっと、せつなくなる。

それはたぶん、ビスカッチャ[※ぜひ、ググってみてください!]といっしょに沈む夕日を眺めていた時代が終わることでもあるのだろうと思う。

ルービン望遠鏡による観測が動き出した今、その夕景を、私たちに残しておこうと届けてくれる本です。

ケストナーの『飛ぶ教室』にそんな言葉があったっけ。

星は消えても、光はずうっと旅をする。そして、ぼくたちのためにまたたいてくれる。

ほんとうは、星はとっくに冷たくなって、光ってないのに。

 

そんなわけで、光の速度で去っていくゴールデンウィークに手をふりながら、最後にこのイラストも載せておこうと思う(どの絵本から撮ったものか忘れてしまったんだけど)。

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未だ証明されていない未知の物質や波形の原因を観測しようと宇宙を相手にするのが天文学者なのだとしたら、たった1冊の絵本の中にも、人の頭の中にも、宇宙が入っていることを証明しようとしている人たちが児童文学関係者である、ということはできると思う。