よむためにうまれて

上昇気流にのって旋回する沖合いのカモメのように、子どもの本のまわりをぐるぐるしながら、ぷかぷかと日々に浮かぶマナティのような個人的記録も編んでいます。

TIBET Through the Red Box by ピーター・シス

これ、すごい絵本です。

 

 

とんでもないです。

ピーター・シスについて記事を2つほど書きましたが、これは(調べた限り)邦訳が無いです。

 

伝記物や、シス自身の体験した時代に関する絵本など、ノンフィクションという題材をファンタジックなイラストで包む、というのがおそらく彼の真骨頂なのだろうと思う。

目の前の材料を別次元におきかえて表現する手腕が抜群に高い。

そういう意味で、『三つの金の鍵』もとてもすばらしい。柴田元幸訳です。一流の翻訳家って良質な作品を見抜く目もすごいんだなぁ。っていうかどこにでもいるな、柴田先生。ゆびきたす。

これもプラハを再訪するシスが、猫から金の鍵をもらうたびにプラハの美しい街に眠る美しい物語が語られていき・・・、という絵本だ。

  

同じように、今現在と地続きなところを起点に幻想空間に誘っていく絵本として、TIBETもシスの幼少の記憶のふたを開けるところから始まる夢のようなはなしだ(筆者あとがきもなかったので、どこまでが事実なんだか作り話なんだかわからないが)

いろいろととんでもない絵本だと思う。

今から20年以上も前の絵本なのに。

だが、表紙の右上に輝くシールのとおり👇、コールデコットのオナーブックになっている。

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じゃあ何がこの年のコールデコットを取ったんだろう、という逆の疑問も湧いてきて、調べてみたら『雪の写真家ベントレー』だった。

子どもの本、という文脈もしっかり維持された中で選ばれてくるこういう賞の系統では、確かにTIBETはオナーブックにはなっても受賞はしないだろう。他にもデイビッド・シャノンとかユリ・シュルビッツの『ゆき』が入っていて、アメリカ児童文学界はいつだっていつだっって豊作だねぇ・・・・・・、とため息が出た。

TIBETは、想定された読者がどの層なのかよく分からない。crossover picturebookの枠に入る絵本だと思う。最近ではTales from the Inner Cityがイギリスで受賞を果たしたけれど、あれも20年前にでていたら、こういう賞のなかではオナーリスト止まりだったんじゃないだろうか、どうだろうか。

あとは、明確な読者層がわからないのと同時に、チベットの旅の幻想性は際立つんだけど、そこと現在をつなぎ合わせる繋ぎ目の部分が金具として若干弱いのかもしれない。それをシスは色が変わっていく父親の部屋で表しているんだけど、最後に「黒」にもっていってるところなんてすごい迫力だ。もう子どもの本だと限定されて読まれなくてもいいよ、ただただ思い出の中にあったものをひっぱり出したらこうなったんだよ、だからコールデコットとか児童書とかクロスオーバーとか言いたいように言ってもらって評価したいようにしてもらったらいいよ、ていうのが本当のところでしょう。

 

といわけで、1998年出版のこのTIBET through the Red Boxについて私は語らないではいられないのです。

 

父親の書斎に置かれた赤い箱。

そこを開けると、父の古い日記が入っている。

語りはこの父の日記と、シスの語りと、見開きで描かれた父の部屋の両脇と下に付された短い文章の三つの時空間を行き来しながら、父のチベットでの体験が語られていく。父が過ごした日々と、いるはずの父がいないチェコのシス家の日々と、そして現在のシスが日記を読んだ部屋で目にしている光景と。

本来はつながり合わない時間がチベットという幻影を中心に螺旋のようにまわりながら物語を進めていく。

 

シスの父親は、映像作家だった。

彼が請け負った仕事はなんと、中国の高速道路建設の様子を映像におさめること。

はるかな中国大陸に道路を通すのに、工事夫はみな人力で掘削をしていた。そして、「ケーキをきれいにカットするかのように」山を真っぷたつに切り裂いて道路を通す。

一体自分はどこに連れて来られたのか、今どこにいるのか。そして、この道路はどこへ通じるものなのか。

 

山あいの秘境にまるでジングルベルを鳴らすかのように鈴をつけ、真っ赤な服を着た郵便配達の男の子が、遥か彼方のチェコからの家族の手紙を携えて彼の元へやってくる。

赤い服は郵便を届けるという緊急性を、そして鈴は郵便配達であることを人に遠くからでも知らせる役目があるのだという。

彼は少年にここはどこかと尋ねるが、少年は何も言わずに去っていった。

だが、少年の落としていった地図から、彼は今自分たちがチベットにいることを知る。

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吹雪の中で一行とはぐれてしまった父親はイエティらしき巨人に助けられるが、やがて元気になって山をおり、ラサへと向かう。

チベットで語られているイエティ伝説をふまえたこのエピソードあたりから、深雪に足をつっこんでいくかのように、現実の境界線が雪崩をおこし、そのままチベット密教がおさめる世界へと入っていく。

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チベットの人々は誰もが優しく、助けをおしまず、ユーモアのセンスに長けている。

と、絵本は語る。

父親は、活仏の少年ダライ・ラマを探さなければ、と思う。

そして伝えなければ、と。

高速道路が近づいていることを。

それは文明や医療をもたらすかもしれないが、イエティの谷にも湖にも人々の足を遠ざけてきた高い山々にも届いてしまいかねない。

それらを消し去りかねない。

そう言わなければ、と心がはやる。

しかしその間、シスの家では父親不在のクリスマスがすぎていく。

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チベット密教曼荼羅を模した挿絵に、父親の日記部分の手書きフォント、そして赤、緑、青、黒、と色を変える父親の部屋。

絵本の幻想性の靄は、黒い部屋で頂点に達する。

それは、現実をゆめうつつだとする仏教のように、

事実のはかなさと真実のありかを同時に表現しているような深みだ。  

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それまでチベットが深い謎に包まれて、高い山のなかでしずかに守られてきた国だったことを思えば、この時代の体験としては在りし日のインカ帝国に足をふみいれたかのような衝撃だったかもしれない。

科学の支配する現代にあって輪廻転生に基づいた活仏を頂点にした国、ということでいえば、環境的意味合いだけではなく、文字どおりチベットは別世界を形成していたわけだから。 

逆に、シスが幻想的に描いて見せたチベットだって、チベットの人たちにとってみれば現実の、信仰と衣食住の場だったんだ。

この本の出版される前年に「セブンイヤーズインチベット」が公開されていて、似たようなものが重なったことに理由があるのかどうかは知らないけど、のちのち世界がさまざまな証言や報告からこの国で起きたことを知ることになり、実際に高速道路が通されてしまうと、チベットはすっかり未踏の国では無くなった。

 

そして、こんなすごい絵本ほど日本で翻訳がされていないんだなぁ。。。

日本は翻訳大国だとつねづね思っているけれど、ときどき、なんで?ていう本を出版してない。

なんで。

大きさとか重さとか絵があまりにチベット密教であることとかいろいろいろいろな理由があるのだろう。 

 

読み終わって本を閉じても、どこかで今も父親の日記がしまわれている赤い箱がある気がしてくる。

その描き方の幻想性とは真逆に、

この世界は確かに在る、

と思わせられるような絵本です。

 

 

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