最近ひらいた絵本から、こちらも大感動の一冊。
去年だか今年だかに(コロナで時の流れを把握できなくなってます)、オレイニコフさんが来日されて、上野の子ども図書館で講演されたのに行ってきたのですが、そのときから気になっていて、やっと手にとることができました。
ニコラエバ&スコットが、イラストの伝わり方はテクストのリニア性に対して瞬間的なんだ、ということを書いてたと思うけど、絵本ていうメディアは、もうある意味で無慈悲なほどに、開いた瞬間に、「あ、これはすごいね」とか「あ、これはう〜んなやつだね」とかわかってしまう。
絵の力は表紙からすでにガンガンにアピールしていて、開いた瞬間に勝負(何の?笑)が決まるのだ。
開くと出てくるこの左右対称の構図をきりひらくタグボートとその煙。
ドンっと絵本の世界観にまず真正面からとけとめられる。
タグボートを出迎えるような見送るような両脇のクレーンが、腕でアーチをつくっているようにも見え、それがすでに絵本のストーリーをまさに港に立ち込めている靄のように示唆している。
この靄で水平線がぼやけて見えないあたりも、演出がにくい。
絵本を読みおえたあとにもう一度このタイトルページをひらいてみると、しみじみとした思いを味わえる絶妙な構図と絵だ。
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レニングラード(サンクトペテルブルク)の港で、大型船舶のあいだを行ったり来たりしながらせっせと働くタグボート。
自分がいないと大型船は停泊できない。
どの船も港に来ては去っていき、広い広い海のはるかな異国へと出て行く。タグボートは決してそんなはるかな国へ行くような船ではない。ひたすら入ってきた大型船のために働いては友だちになり、そしてサヨナラをする。
イラストにばかり気を取られていても、文章のくりかえし表現がでてくるあたりから、じわじわと、あれ、この語り手は普通じゃない、物凄い語り手だ、とにわかに気づかされる。
岸辺がまどろんで おだやかに口をつぐみ、
岸辺のヤシにとまっているオウムだけがなきさけぶところ
⛴
曳いてきては、曳いていき、曳いてきては、曳いていく
⛴
さようなら、みんな。さようなら、友だち。
それもそのはず、文章はノーベル文学賞詩人のヨシフ・ブロツキーが生前わずかに書いたという子どものための詩に、オレイニコフさんがイラストをつけて絵本にしたのだ。
オレイニコフさんも国際アンデルセン賞を受賞しているのだから、まさに最高峰の二人が絵本を創るとこうなります!という珠玉の一冊と言っていい。
文句なしのMasterpieceだ。
(ただねぇ、傑作だなぁ、と思えばこそ、日本語の文字のフォントすら気にかかる。絵本のフォントに、もっともっともっともっと神経を使っていいはずだ。文字もイラストのなかに含まれる表現の一部なんだから。それこそスティーブ・ジョブズのように文字の価値に神経質になるべきだ。そのデザインと文脈への調和に対して最大限の注意を払うべきだ。そうしないと、もはやイラストに対してノイズでしかなくなってしまうもの。
オリバー・ジェファーズの絵本はいつだって手書き感があって、まるでオリバー・ジェファーズからの手紙かメモ書きを読んでいる気分になるし、最近ではヨシタケシンスケさんの絵本もヨシタケさんの落書きをそのまま見てるような楽しさがある。ピーター・シスもローレン・チャイルドも文字の配置をイラストの一部として扱っている。ぐちゃぐちゃなようでいて、実は目がイラストといっしょに文章を追いやすいし、何より楽しい。すべての絵本がそうあるべきだとは言わないけど、でも、フォントは気を使った方がいい。絶対に。その作者のためにも。)
閑話休題。
見送るばかりのタグボートも、いつか港を去っていく日がやってくる。
白髪になった船長や乗組員たちに見送られて。
ここで生きていくんだ、というタグボートの生きる意志と自分の役割を知っている強さ、そして働くだけ働いて天寿を全うする潔さ。
そんな「タグボート」におだやかに「人間」が重ねあわされているのがやさしい。
社会主義期に書かれた詩とは思えないほど説教臭さがない。
この絵本を美しくしているのは、詩がタグボートや船を擬人化しているのに、イラストは決して擬人化していないところだ。
「絵本だからっつって、擬人化なんて安易にするもんじゃないんだ」ということをよく教えてくれる絵本だと思う。
詩が、小さなタグボートの普通だけれどかけがえのない日々を存分に描いているからこそ、イラストが下手に乗り物を擬人化したり、キャラクター化する必要などないのだ。
その港の風景だけで、せっせと行ったり来たりするタグボートの"佇まい"だけで十分なのだ。
たたずまい、ていい言葉ですよねぇ・・・・。大好きです。
美しいテクストにどんな"角度"でイラストをつければいいかのお手本みたいな絵本です。
願わくば、人間このタグボートのようでありたいなぁ、と思いました。