よむためにうまれて

上昇気流にのって旋回する沖合いのカモメのように、子どもの本のまわりをぐるぐるしながら、ぷかぷかと日々に浮かぶマナティのような個人的記録も編んでいます。

芽吹く季節に:『なずず このっぺ』

「ぼくらは、体温三十何度かの血の流れているスピーカーですよ。」

寺山修司は言っている。

この言葉もすごく好きです。

 

そして、こんなふうに続けて説明しています。

しゃべっている言葉だって、おととい書物で読んだり、きのうテレビで聞いたりしたものばかり。

それが頭の中でコラージュされて、通過して出て行くわけですよ。

あしたはもうからだに残ってない言葉もあるし、うまく出ていかないで、何年も体内に残っていたりするのもあるかもしれない。

いずれにせよ、それは、その程度のものだと思うんですね。

 

(『月蝕書簡』栞:「現代詩歌のアポリア――心・肉体・フォルム」より)

これは『月蝕書簡』の'おまけ'で入っていた栞で、原典は「週刊読書人」の1976年11月1日号に掲載された佐々木幸綱と寺山修司の対談のようです。

十数年ぶりに寺山が短歌をまた書き始めたことから話が始まっています。

短歌に戻って来た頃の彼の考え方の参考に、ということのようで、こういうのありがたいし興味深いですね。

特に冒頭の言葉は、21世紀も5分の1が終わった地点で呼び起こされると、このSNS全盛のときを迎えて、私たちは「スピーカー」以上にマイクか拡声器かになったのかもしれません。

 

言葉は、からだに入って、通過して、出ていったりいかなかったりするものだ、という考え方が私はすごく好きだし、そのとおりだよなぁと思うし、まさにそうだなと思う出来事も、あったりする。

誰かの言葉がからだの中に入ったまま出て来なかったりして、それをどうやって取り出したらいいのかわからないまま、結局、このままこの言葉をからだの中に残して生きていってみよう、と思ったりも、するかもしれない。

言葉は、目で見て読むし、耳で聞くし、口から発し、手で書き、指で打つ。その出入口ではからだを要する。もっと言えば、竹内敏晴さんが捉えていた言葉は、多分にからだと共鳴していた。

今はネット空間のメディアが主流になっても、やっぱりそこに溢れる言葉の人間にとっての出入口は、目であり耳であり手であり、口ではあるんだなぁ、と思うわけです。

 

目、といえば、植物の芽も「め」と言います。

ある日、ニョキっと土から出て来た緑色のもの。

「彼」はそれを見つけて、問います。 

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仲間も寄ってきて、切り株に住んでる博士?も出てきて、これなんだべなんだべみたことねえなぁ、となります。

そのうち緑のものは高くなり、からだを大きくひろげはじめ、ややっ!

 じゃじゃこん!

なにやらステキなものがてっぺんに。

 

突如出てきたものに対する昆虫たちの やんややんや とする世界を'余計な'言葉がないぶん、堪能できます。

言葉はいつも瞬間に遅れるしかなくて、私たちはいつも遅れて世界をふりかえるしかない中で、きっとこの「昆虫語」が、人間の言葉を黙らせてくれる役目をはたしている、のかもしれません。

ま、そんなことはどうでもよくて、彼らと一緒にこのニョキニョキとのびて、そして美しいものとのひとときを、のびのびと楽しめる一冊です。

だから、やっぱり独り占めはダメですよねぇ。

もくもくと糸をはったりしたら、ダメです。

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邦訳はアーサー・ビナードさんの訳です。

若干の興ざめするようなことを言いますが、この「昆虫語」も、(原作は読んでいないけど)そういう意味では、ビナードさんのからだの中にたまっていた言葉から、解体されて、それでも意味をもたないではいられない音が集まり直して、ある日芽を出したものに対する昆虫たちの驚きの言葉になっているとも言えます。

だから、昆虫語ではありながら、そのことばの響きはちゃんと私たちのからだにとどくものが、組み込まれています。

もしも毎日の言葉にあきあきして、からだの中を通すのも苦痛だわい、と思いはじめたら、『なずず このっぺ』(フレーベル館/エリス・カーソン作・絵)を開いてみるといいかもしれません。

日常の濁流のような言葉から開放してくれるかもしれません。

「お花がさきました」なんていう野暮で出来事から出遅れた言葉は聞きたくないさ、と'やさぐれ'てしまったりしたときに(笑)おすすめです。

言葉がとどけられるときは、出会いと発見の瞬間の共有であることを、もう一度感じ直せると思います。

 

寺山修司にとっての三十一音も、そんな意義があったんだんだろうと思います。

 

~✿~

 

イギリスで買ってきた花の種が、昨年花開き、一番気に入っていたコーンフラワー矢車菊 日本の花の名前って本当にいいですね)もちゃんと咲きました。

その「花の残り」が種かどうかはわからないけれど、いちおうティッシュに包んで取っておいて、試しに撒いてみたのがこちら☟です。

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なにやら出てきましたが、彼らが何者なのか、全くわかりません( ̄∀ ̄)

果たして彼らの中に矢車菊がいるのかいなか(いなさそうなんだよなぁ)。

毎朝成長を見守りながら、

 なずず、このっぺ?

とたずねています。

本格的な春がきたら、こう言えるといいな。

 

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